伝記
サー・チャールズ・スコット・シェリントンは、1857年11月27日に生まれた。公式の伝記では、ロンドンのイズリントンで、田舎医者ジェームズ・ノートン・シェリントンと妻アン・サーテルの子として生まれたとされる。ところが実際のジェームズは、グレート・ヤーマスの金物商兼画材商で、チャールズが生まれる9年近く前の1848年に亡くなっていた。1861年の国勢調査には、「チャールズ・スコット」という名の4歳の下宿人(インド生まれ)として、アンを世帯主とする家に、外科医ケイレブ・ローズとともに記録されている。幼い頃の家族との関係は不明で、研究者の間では、インドで生まれた身元不明の子だったのか、ローズとアンの庶子だったのかが論じられており、複数の著者は後者の可能性が高いとしている。息子のカーは、ジェームズは常に「ミスター」と呼ばれ、医師だったとは聞いておらず、主に芸術に関心を持つ画家たちの友人だったと述べている。ローズは先妻の死後の1880年にアンと結婚した。1860年代に一家は、ローズの喘息にロンドンがよくないとして、イプスウィッチに移った。
ローズは古典学者であり考古学者でもあった。イプスウィッチのエッジヒル・ハウスには、絵画や書物、地質標本が並び、知識人がよく訪れた。ローズがノーリッジ派の画家たちに関心を持っていたことから、シェリントンは美術を愛するようになり、この環境が学問への驚きの感覚を育てたとされる。入学前にローズから贈られたヨハネス・ミュラーの『生理学要綱』も読んでいた。1871年にイプスウィッチ校に入り、詩人トマス・アッシュの教えから、古典への愛と旅への望みを得た。ローズは彼を医学に進ませようとし、最初は王立外科医師会で学び始めた。ケンブリッジ大学での勉学も望んだが、銀行の破綻で家計が打撃を受けた。そこで1876年9月、弟二人を先に進学させるため、セント・トマス病院に「永続的生徒」として登録した。医学の勉強はケンブリッジのゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジでの学業と並行して進められ、そこで専攻に選んだのが生理学で、マイケル・フォスターに学んだ。
1887年からセント・トマス・メディカル・スクールに勤め、1895年にリヴァプール大学の教授になり、1913年にはオックスフォード大学の生理学教授に就いた。1893年に王立協会のフェローに選ばれ、1920年から1925年まで会長を務めた。脊髄反射を、連結したニューロンの系として捉えることなど、現代神経科学の基礎となる多くの実験を行い、2つのニューロンの接合部を「シナプス」と名づけたのも本人である。関節の筋が収縮すると反対側の筋(拮抗筋)が弛緩するという「シェリントンの法則」にも名前が残っている。1906年の『神経系の統合作用』はこれらの研究を総合した書物である。組織学、細菌学、病理学の研究も行った。1897年にクルーニアン・メダル、1905年にロイヤル・メダル、1924年にメリット勲章、1927年にコプリ・メダルを受け、1932年には神経細胞の研究でエイドリアンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。1935年に引退し、1952年3月4日に没した。
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