伝記
ルートヴィヒ7世は、1365年12月20日に生まれたバイエルン=インゴルシュタット公である。1368年ごろの生まれとする記述もある。当時のフランスの流行にならって髭をたくわえていたことから、髭公と呼ばれた。父はシュテファン3世、母はミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの長女タデアで、フランス王シャルル6世の妃イザボー・ド・バヴィエールの兄にあたる。1381年に母を亡くした。
1388年に初めて軍事を経験し、9月にはドナウシュタウフの包囲に加わった。1391年末には、ローマ教皇ボニファティウス9世の命でフランスへ赴いた。教皇は、父とともにイタリアを旅した彼に、フランスと神聖ローマ帝国でローマ教皇のために尽くすよう託していた。彼は手厚く迎えられ、義弟のシャルル6世や廷臣たちはドイツ風の衣服を贈り、滞在費を5千フランに引き上げた。1391年から1415年のあいだに、フランスで数年を過ごした。シャルル6世が狂気のために統治できなくなると、フランスの摂政に任じられたともいう。祖父ベルナボ・ヴィスコンティの縁で、イタリアの政治にも関わった。1402年には、ラ・マルシュ伯ジャン1世の娘アンヌとパリで結婚し、1403年に息子ルートヴィヒ8世が生まれ、翌1404年に生まれたヨハンは死産であった。1408年には、同族のリエージュ司教ヨハンと市民が対立し、兄のヴィルヘルム2世、ブルゴーニュ公ジャン無怖公とともに反乱を鎮圧した。
1413年に父が亡くなり、公位を継いだ。同じ年にアランソン伯ピエール2世の娘カトリーヌと再婚し、皇太子の叔父として皇太子からバスティーユの総督に任じられた。1425年、下バイエルン=シュトラウビング公ヨハン3世の死後の遺領をめぐって従兄弟のハインリヒ16世、エルンストと対立し、1429年に分割相続することで合意した。1443年には、ハインリヒ16世と同盟を結んだ息子ルートヴィヒ8世に裏切られ、投獄されたのち廃位された。ルートヴィヒ7世は1447年9月26日にブルクハウゼンで亡くなるまで幽閉され、ルートヴィヒ8世も父に先立って亡くなってインゴルシュタット系は断絶し、遺領はハインリヒ16世に奪われた。
同じ年に亡くなった人物
- フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ (1447年没)
- エウゲニウス4世 (ローマ教皇) (1447年没)
- ミルチャ2世 (1447年没)
- ヴラド2世 (1447年没)
- ヘンリー・ボーフォート (枢機卿) (1447年没)
同じ地域に関係する人物
- ライモンド・モンテクッコリ (1680年没)
- マリーア・マッダレーナ・ダウストリア (1631年没)
- ペーター・ファン・ペルス (1945年没)
- クララ・ヒトラー (1907年没)
- ハインリヒ13世 (バイエルン公) (1290年没)