伝記
イオン・ヴィクトル・アントネスクは、1882年6月14日にルーマニアのピテシュティで生まれた軍人、政治家である。ルーマニアで王族以外に3人しかいない元帥の一人となり、第二次世界大戦中に首相と国家指導者として国を率いた。父は自作農家で、軍の大尉を務めており、息子に軍人の道を歩ませようと、クラヨーヴァの歩兵・騎兵学校に入学させた。幼い頃に父が母と離婚して、ユダヤ系からの改宗者の女性と再婚したことは、少年にとって痛ましい出来事で、継母への反感を隠さなかった。母とは特に親しかったという。1904年に卒業して少尉に任官し、規律に厳しく容赦のない指揮官という評判と赤毛から「赤い犬」とあだ名された。上官に疑問を呈し、間違いだと思えば頭越しに訴えることでも知られた。
フランスで軍事教育を受け、1907年の農民蜂起の鎮圧では騎兵部隊を率いた。その役割については、特に暴力的だったとする歴史家もいれば、通常の将校と変わらなかったとする者もいる。1913年の第二次バルカン戦争では、街道の要所を少数の兵力で守り抜いた功績で、ミハイ勇敢公勲章を受けた。第一次世界大戦では参謀将校として反攻作戦を立案し、戦後のハンガリー・ルーマニア戦争にも参加して、ブダペスト攻防戦で功績を挙げた。1923年にパリの駐在武官となり、ユダヤ系フランス人のレイチェル・メンデルと結婚し、1924年からはロンドン駐在武官を務めた。陸軍騎兵学校長や参謀大学校長を歴任し、1933年に王立陸軍参謀総長となって、軍の近代化を図った。
1937年からいくつかの内閣で国防相を務めたが、極右の鉄衛団と関係を持ったとして、同年投獄された。釈放後の1940年、国王カロル2世がソ連の要求に応じて領土の一部を割譲し、続いてハンガリーとブルガリアにも領土を割譲したことに反発して、再び投獄された。同年に釈放されると、カロル2世を退位させて首相に就任し、国民投票を経て国家指導者の地位に就いた。親枢軸外交を進め、11月には日独伊三国同盟に加盟した。当時のドイツは石油の輸入をルーマニアのプロイェシュティ油田に頼っており、ルーマニアの枢軸国参加は大歓迎であった。政権当初の支持基盤は鉄衛団だったが、そのテロを警戒して距離を置いた。1941年1月に鉄衛団が反乱を起こすと、ヒトラーはアントネスクを支持し、反乱は鎮圧された。
ドイツの要求により、約4万人のユダヤ人を強制収容所へ移送するのに協力し、ホロコーストに加担した。政権下では、2万5千人のロマが国外に追放され、約27万人のルーマニア系とウクライナ系のユダヤ人が虐殺されるか収容所で死亡した。1941年6月の独ソ戦で枢軸国側に立って参戦し、オデッサへの侵攻などを支援したが、装備で劣るルーマニア軍は補助的な役割しか与えられなかった。スターリングラード攻防戦では、ソ連軍の反攻により短期間で壊滅した。赤軍が迫る中、1944年8月23日に国王ミハイ1世の宮廷クーデターで失脚した。戦後はソ連に捕らえられてルーマニアの共産政権に引き渡され、戦犯として、1946年6月1日にブカレスト郊外のジラヴァで銃殺された。2006年12月に名誉回復がなされたが、反ユダヤ政策や対独協力のため、国内外で評価が分かれ、特にルーマニアやユダヤ人社会ではタブー視されている。
同じ年に亡くなった人物
- フェリックス・ホフマン (薬学者) (1946年没)
- ホルヘ・ウビコ (1946年没)
- ルイス・スローティン (1946年没)
- ジャック・ジョンソン (ボクサー) (1946年没)
- エルンスト・カルテンブルンナー (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- ウラジミール・ギカ (1954年没)
- コルネリウ・コドレアヌ (1938年没)
- マリン・プレダ (1980年没)
- ヴィクトル・スタンクレスク (2016年没)
- ミハイ・アントネスク (1946年没)