伝記
レオノール・デ・アルブルケルケは、1374年に生まれ、1435年12月16日にメディナ・デル・カンポで没した、アラゴン王フェルナンド1世の王妃である。レオノール・ウラカ・デ・カスティーリャとも呼ばれ、財産に恵まれていたことから「リカエンブラ」、つまり「富める女」というあだ名で知られた。父はカスティーリャ王エンリケ2世の弟サンチョ・デ・アルブルケルケで、アルフォンソ11世と愛妾レオノール・デ・グスマンの子である。母はポルトガル王ペドロ1世とイネス・デ・カストロの娘ベアトリスで、1381年に世を去った。父は暴動の中で殺されたといい、レオノールはおそらく父の死後に生まれた。
兄のフェルナンド・サンチェスは、1385年のアルジュバロータの戦いで子のないまま戦死した。このためレオノールはアルブルケルケ伯の称号を継ぎ、主にリオハとエストレマドゥーラにある多くの所領を手にした。従兄の国王フアン1世からも、5つの都市と3つの町を与えられており、裕福な相続人だった。最初は従兄のファドリケ・エンリケス(ベナベンテ公)と婚約したが、幼い国王エンリケ3世の摂政会議内でのファドリケとトレド大司教の対立のため、1390年に破談となった。1390年10月9日にフアン1世が没すると、摂政評議会は、11歳の長男エンリケと年子の次男フェルナンドの扱いを協議し、弟は兄が14歳になるまで結婚できないことなどを取り決めた。こうしてフェルナンドの婚約者に、レオノールが選ばれた。フェルナンドはまだ10歳で、結婚はすぐには実現しなかった。
レオノールは、1393年とも1394年ともいわれる年にフェルナンドと結婚し、平穏な結婚生活を送ったと伝わる。夫妻には5男2女が生まれた。長男アルフォンソ5世は、のちにアラゴン王、シチリア王、ナポリ王となり、三男フアン2世はナバラ王、アラゴン王となる。長女マリアはカスティーリャ王フアン2世の最初の王妃となってエンリケ4世を産み、次女レオノールはポルトガル王ドゥアルテ1世の妃となった。1410年にアラゴン王マルティン1世が没して王位継承の危機が起こると、フェルナンドは候補の一人となり、1412年のカスペの妥協で王に選ばれた。レオノールは王妃となり、1414年に戴冠式を挙げた。この間、西方教会の大分裂が終わることを願い、夫に対立教皇ベネディクトゥス13世を退位させるよう迫った。フェルナンドは、ベネディクトゥス13世の支持のおかげで王位を得た面もあってためらったが、ついに妻の願いを受け入れた。しかしベネディクトゥス13世はこれに応じず、ペニスコーラの城にこもって1423年に没するまで抵抗した。
1416年にフェルナンド1世が死去し、息子アルフォンソ5世が即位した。夫がカスティーリャの摂政だったことから、息子たちはカスティーリャへの干渉を強め、1420年には、エンリケがトルデシリャスでカスティーリャ王フアン2世を誘拐する事件まで起きた。レオノールはカスティーリャとアラゴンの両トラスタマラ家の争いを収めようと腐心したが、フアン2世は態度を硬化させ、レオノールをトルデシリャスのサンタ・クララ修道院に幽閉した。1430年に条約が結ばれ、レオノールや息子たちがカスティーリャ国内に持っていた財産はすべて没収された。
晩年のレオノールはメディナ・デル・カンポに引きこもり、1435年8月にポンツァ沖でアラゴン艦隊が敗れ、息子たちがジェノヴァ人に捕らえられたという知らせを受けた。同じ年のうちに修道院で死去し、息子アルフォンソ5世とカスティーリャの結びつきは完全に途絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- Abd al-Qadir al-Maraghi (1435年)
- ジョン・オブ・ランカスター (1435年没)
- ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王) (1435年没)
- カラ・ユルク・オスマン (1435年没)
- 宣徳帝 (1435年没)
同じ地域に関係する人物
- クリストファー・コロンブス (1506年没)
- フアナ (カスティーリャ女王) (1555年没)
- カタリナ・デ・ランカステル (1418年没)
- フアン2世 (カスティーリャ王) (1454年没)
- フェデリコ・バーモンテス (2023年没)