伝記
クリストファー・コロンブスは、大航海時代の探検家・航海者で、1506年5月20日に没した。定説ではイタリアのジェノヴァの出身で、元の姓名はクリストーフォロ・コロンボだったが、スペインに移り住んでからはクリストバル・コロンと名乗った。当時のスペインの文献のほとんどが「コロン」と記していることから、本人が名乗っていたのはこの名だったと考えられている。彼の実績により、子孫はスペイン王室からベラグア公爵などに叙され、公爵家は2024年現在もスペイン貴族として続いている。
生まれは1451年8月25日から10月末までの間にジェノヴァかその近郊とする説が主流だったが、裏づけとなる史料はなく、異説も多いため事実ははっきりしない。通説では、毛織物職人の一家に生まれ、父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間には7人の子がいたとされる。父は毛織物業を自営し、ワインやチーズの売買も行ったが、一家は決して裕福ではなかった。海とのかかわりは10代のころに始まり、最初は父の仕事を手伝って船に乗った。1475年から翌年にかけてジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ、エーゲ海のヒオス島で乳香の取引に関わったと、第一次航海誌で述べられている。1476年5月には、乳香をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加したが、8月13日、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖でフランス艦船の攻撃を受けて船が沈没した。コロンブスは櫂につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴスにたどり着いた。
その後リスボンに移った。時期は1477年春以降と考えられ、地図製作に従事していた弟バルトロメと、地図の作成や売買をしながらたびたび航海にも加わった。1479年末にはフェリパ・ペレストレリョ・エ・モイスと結婚した。彼女の父はポルト・サント島の世襲領主で、貴族階級の女性だったが、すでに没落していたペレストレリョ家は持参金を用意できず、コロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどが、釣り合わない結婚の背景と推察されている。1480年ごろには長男ディエゴが生まれた。このころ、スペイン語やラテン語、天文学、地理、航海術の習得に努め、パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと手紙を交換した。トスカネッリは、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりずっと短いと主張しており、『東方見聞録』の黄金の国ジパングに惹かれていたコロンブスは、西廻りでアジアへ向かう計画に現実性を見出したという。
1484年末、ポルトガル王ジョアン2世に援助を求めたが、成功報酬に高い地位や権利、収益の10%を求めたことなどもあり、数学委員会の諮問で否決された。妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルを離れる決心をした。スペインでは、パロスに近いラ・ラビダ修道院の院長に迎えられ、メディナセリ公の関心を得て、1486年5月1日にはコルドバでイサベル1世とフェルナンド2世に謁見した。フェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。しかしタラベラ神父を中心とする諮問委員会は、アジアまでの距離を疑問視し、1490年には提案に反対する結論を出した。1491年には枢機院にも否決されたが、財務長官サンタンヘルが女王の説得に乗り出し、1492年1月2日のグラナダ陥落でスペインに財政上の余裕もできたため、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。
同じ年に亡くなった人物
- ベアトリス・デ・ポルトゥガル (1430-1506) (1506年没)
- ジョアン1世 (コンゴ王) (1506年没)
- フェリペ1世 (カスティーリャ王) (1506年没)
- 燕山君 (1506年没)
- アンヌ・ド・フォワ (1506年没)
同じ地域に関係する人物
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- マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル (1545年没)
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- アルフォンソ5世 (アラゴン王) (1458年没)
- レオノール・デ・アルブルケルケ (1435年没)