伝記
フアン2世は、1405年3月6日にトロで生まれ、1454年7月21日にバリャドリッドで没した、カスティーリャ王国トラスタマラ朝の国王である。エンリケ3世と、イングランドの王子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘である王妃カタリナの息子で、カスティーリャ女王イサベル1世の父にあたる。同名のアラゴン王フアン2世は従兄である。
1406年12月25日、父の死によってわずか1歳10か月で王位に就き、母カタリナと叔父フェルナンド・デ・アンテケーラが摂政となった。ペドロ1世の孫を母に持つため、その即位には、ペドロ1世の系統とトラスタマラ王家の合一という意味があった。幼いころは、誘拐を恐れて6年ほどセゴビアのアルカサル、次いでバリャドリッドの修道院に厳重に閉じ込められた。4歳のとき、18歳の小姓アルバロ・デ・ルナを紹介され、深い友情で結ばれた。叔父は1410年にナスル朝からアンテケーラを奪回して声望を高めたが、1412年にアラゴン王フェルナンド1世として即位した後も、カスティーリャの有力貴族と結んで干渉を続けた。1416年に叔父が亡くなっても変わらず、その息子のアルフォンソ5世、フアン、エンリケの3兄弟は「アラゴンの王子たち」と呼ばれてカスティーリャへの干渉を続けた。1418年に母が亡くなると、フアン2世はエンリケに誘拐されたが、エンリケの兄フアンの干渉でエンリケは断念した。同年、アラゴン王フェルナンド1世の娘で従姉のマリア・デ・アラゴンと結婚した。これより前の1415年には姉のマリアがアルフォンソ5世と、1420年には次姉カタリナがエンリケと結婚しており、エンリケはカスティーリャの宮廷に進出して、油断ならない存在だった。
フアン2世にとって、これらは王権への脅威だった。彼は、彼らと組んだ貴族層の排斥を図り、サンティアゴ騎士団長アルバロ・デ・ルナを重用して専制を試みた。これはスペインの寵臣政治の最初の例とされる。貴族の土地の収奪でガリシアの農民が反乱を起こし、ビスカヤで異端運動が起きるなど社会不安が広がる中、1430年にアルフォンソ5世と休戦協定を結び、アラゴンの王子たちをカスティーリャから締め出した。それでも干渉は続いたが、1445年のオルメードの戦いでアラゴン派の貴族とエンリケの軍を破った。エンリケは戦傷がもとで死んだ。こうしてアラゴンからの干渉を断ち切ったフアン2世は、貴族も排除して王権の強化に踏み切り、財政機構の整備、コルテスの統制、高等法院のバリャドリッド移転を実行した。
治世は49年に及んだが、それはカスティーリャにとって極めて不運なことだったとされる。フアン2世は温和だったが、意志が弱く、周囲に影響されやすかった。装飾のほかには好みがなく、詩作、狩り、馬上試合のような娯楽以外には興味がなかった。1447年にポルトガル王女イサベルを2番目の王妃に迎えるまで、アルバロを信任していた。しかしイサベルはアルバロから王への影響力を奪い、忠実で有能な大臣だった彼を罷免させた。1454年7月21日に49歳で亡くなり、先妻との間の長男エンリケ4世が王位を継いだ。イサベルとの間には、のちの女王イサベル1世と、1453年生まれのアルフォンソが生まれた。
同じ年に亡くなった人物
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