伝記
カラ・ユルク・オスマンは、白羊朝の初代君主である。カラ・オスマンともいい、「黒い蛭」を意味するあだ名で呼ばれた。生年は分かっていないが、死のとき80歳ほどだったといわれることから、1350年から1355年の間と推定される。白羊朝の王家は、東部アナトリアで遊牧していたトゥルクマーン系のバヤンドル族の首長の家で、14世紀の半ばからディヤルバクルを中心に勢力を蓄え、世紀の後半に部族連合国家の盟主となった。祖父トゥル・アリ・ベイは、トレビゾンド帝国に対して襲撃をくり返していた。オスマンの父は、バヤンドル族の首長ファフル・アッディーン・クトゥル・ベイで、母はトレビゾンドの皇女マリア・ハトゥンだったといわれる。
オスマンは、母方の叔父にあたるトレビゾンド皇帝アレクシオス3世の娘と結婚した。トレビゾンドの領地への攻撃が絶えなかったため、皇帝が娘を嫁がせて攻撃をやめさせたともいう。1388年に父が亡くなると、兄のアフマド・ベイが部族を率い、オスマンは自ら襲撃を行い、のちには黒羊朝とも対立するようになった。エルズィンジャンのムタッハルテンとの争いで、兄がサヴァスに避難すると、オスマンはエレトナ侯国の君主カーディー・ブルハーンッディーンを助けて勢力を固めたが、のちに二人は対立し、1399年にカーディー・ブルハーンッディーンは処刑された。オスマンは、黒羊朝に対抗する支持者を求め、エジプトのマムルーク朝と同盟した。
ティムールが東部アナトリアに侵攻してくると、ティムールに抵抗した黒羊朝に対して、オスマンはティムールに完全に従った。1399年にカラバフでティムールを待ち受け、1400年にはサヴァス攻略を助けた。1402年のアンカラの戦いにもティムール側で参加し、ティムールがアナトリアを去る際に、戦功としてディヤルバクル周辺の支配権を認められた。これが、白羊朝発展の基礎となった。1405年にはマムルーク朝領のビレジクを略奪した。黒羊朝がカラ・ユースフのもとで勢力を回復すると、不可侵の協定を結んだ。1408年にはマルディンに向かったが、マルディンのアルトゥク家はマムルーク朝の助けでディヤルバクルのオスマンを包囲し、オスマンは防いで包囲軍を破り、同じ年にウルファを奪った。再びマルディンを攻めると、今度はアルトゥク家の頼みでカラ・ユースフが現れてオスマンを追い払い、黒羊朝はエルズィンジャンなど多くの土地を奪った。1418年、敗れたオスマンはマムルーク朝領へ逃れた。
1420年にカラ・ユースフが亡くなると、その後継者カラ・イスカンダルとの戦いのなかで、オスマンは王位の交代に乗じて反撃し、ハルプト、マラティヤ、マルディンの一帯を略奪した。マムルーク朝に対しても行動を起こしたため、1429年にマムルーク軍がウルファを包囲した。息子のハビル・ベイが交渉して、略奪はしないという条件で街を明け渡したが、マムルーク朝は約束を破り、略奪と殺害を行って、ハビルを捕らえてカイロへ送り、彼はそこで捕虜のまま亡くなった。オスマンは息子を救えず、国境地帯を荒らし、1433年にマムルーク朝のスルターン、バルスバーイが自ら遠征した。5月28日にマムルーク軍がディヤルバクルに着き、包囲が始まったが、オスマンは数日間持ちこたえ、バルスバーイは、オスマンの臣従を確保して7月にカイロへ戻った。しかし1435年、オスマンは黒羊朝との戦いに敗れて戦死した。
同じ年に亡くなった人物
- イザボー・ド・バヴィエール (1435年没)
- ヘルマン2世 (ツェリェ伯) (1435年没)
- レオノール・デ・アルブルケルケ (1435年没)
- マイスター・フランケ (1435年)
- Antonio I Acciaioli (1435年)
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