HISTORICAL PERSON · 1156年没

鳥羽天皇

第74代天皇で、5歳で即位し白河法皇が政務を執った。崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたり院政を敷き、平忠盛を昇殿させた。後白河天皇の即位は保元の乱の原因となった。笛の名人としても知られる。

生涯
1156年没
死亡地
日本(京都府 / 安楽寿院)
出生地
—
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

鳥羽天皇は、日本の第74代天皇である。諱は宗仁といい、1103年2月24日(康和5年1月16日)に、堀河天皇の皇子として生まれた。母は藤原実季の娘の苡子である。生まれて間もなく母が没したため、祖父の白河法皇のもとに引き取られて育てられた。誕生から7か月で皇太子に立てられ、1107年(嘉承2年)に父の堀河天皇が没すると、5歳で即位した。幼い天皇は政務を執ることができず、当時の関白藤原忠実は立場が弱く、白河法皇の風下にあったため、実際の政務は白河法皇が執った。1112年(天永3年)、白河法皇の60歳の祝いでは、自ら催馬楽を披露している。父の堀河天皇と並ぶ笛の名人としても知られた。

1117年(永久5年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内し、翌年には中宮となって、5人の皇子と2人の皇女を産んだ。1123年(保安4年)1月28日、第一皇子の崇徳天皇に譲位した。譲位後、崇徳天皇が朝覲行幸に訪れたときには、自ら笛を演奏してもてなしている。その後も実権は白河法皇が握り続けた。父の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が実権の全部、あるいはある程度を握っていたが、鳥羽天皇の治世のうちに白河院政が本格化した。璋子は幼いころから白河法皇に溺愛されており、『古事談』には、鳥羽院が崇徳天皇を「叔父子」、つまり祖父の白河院の子であり叔父にあたる子と呼んでいたとある。

1129年(大治4年)に白河法皇が没すると、鳥羽上皇は院政を始めた。白河法皇の怒りに触れて宇治にこもっていた前関白の藤原忠実を、1131年(天承元年)に呼び戻し、その娘の泰子(高陽院)を入内させて、上皇の妃としては異例の皇后とした。白河法皇の側近だった藤原長実と家保の兄弟らを退け、院の要職を自分の側近で固めた。有力な院司には藤原顕頼や藤原家成がいる。また、伊勢平氏の平忠盛に内昇殿を許し、政権に近づけた。1133年(長承2年)ごろからは、後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛した。

1139年(保延5年)には、鳥羽の安楽寿院の境内に、生前から自分の墓となる三重塔を築いている。1141年(永治元年)、23歳だった崇徳天皇を譲位させ、得子が産んだ第九皇子の躰仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。1142年(康治元年)には東大寺の戒壇院で受戒して法皇となった。1148年(久安4年)ごろには、得子の墓所として別の三重塔を建て、得子の死後にその遺体を納めるよう言い残したが、得子は入ることを拒み、遺言どおり火葬されて、遺骨は高野山に納められた。

1155年(久寿2年)に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟にあたる雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより、崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われた。鳥羽法皇は、間もなく病に倒れ、1156年7月20日(保元元年7月2日)に没した。この後白河天皇の即位が、保元の乱が起こる原因となった。鳥羽の安楽寿院の御所で没し、遺言によって鳥羽院と追号され、遺詔により遺体は生前に築かせた塔の下に納められた。

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