HISTORICAL PERSON · 1181年没

平清盛

平安末期の武将・公卿で平氏の棟梁。保元の乱で勝利に貢献し、平治の乱で最終的な勝者となって武士初の太政大臣に就いた。日宋貿易を進めて宋銭を流通させ、日本初の武家政権を築いたが、源氏の挙兵の中で病没した。

生涯
1181年没
死亡地
日本(京都府 / 京都)
出生地
日本(産品)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

平清盛は、1118年2月10日に生まれ、1181年に没した平安時代末期の武将で公卿、平氏の棟梁である。伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡男として生まれた。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、1120年に亡くなった可能性が高いとされる。『平家物語』の語り本系の諸本は、白河法皇の寵愛を受けて身ごもった祇園女御が忠盛に与えられて清盛が生まれたと伝えるが、読み本系の延慶本は、祇園女御に仕えた女房の子としている。祇園女御が清盛を猶子にしたという記録もある。清盛は1129年正月、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任され、中御門宗忠は驚いた。若いころは、鳥羽法皇第一の寵臣の藤原家成の邸に出入りしていた。1137年に忠盛が熊野本宮を造営した功により、肥後守に任じられた。

1147年、後妻の時子とのあいだに宗盛が生まれた。この年6月に祇園社で、郎等の武具を咎めた神人と小競り合いになり、郎等の放った矢が宝殿に当たる事件が起きた。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を求めて強訴したが、鳥羽法皇は2人を守り、清盛の罪は罰金刑にとどまった。正室の子の異母弟の家盛が頭角を現したが、1149年に急死し、清盛が平氏の嫡流と目されるようになった。清盛は安芸守となって瀬戸内海の制海権を握り、莫大な利益をあげ、父と西国へ勢力を広げた。このころから、宮島の厳島神社を信仰するようになった。1153年に忠盛が死ぬと、平氏一門の棟梁となった。

1156年の保元の乱では、清盛の義母の池禅尼が崇徳上皇の子の重仁親王の乳母だったため立場が難しかったが、一門をまとめて後白河天皇側について戦い、勝利をもたらした。乱後に播磨守・大宰大弐に任じられた。敵に回った叔父の平忠正の処刑も、自ら行っている。1159年の平治の乱では、政権を握った藤原信頼らの反信西派を一掃して、地位を高めた。この過程で源義朝ら有力な武士が滅び、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力と警察力を握り、武家政権の基礎をつくった。1164年には厳島神社に『平家納経』が奉納され、同じ年に後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を造営した。清盛は二条天皇の厚い信任を受けたが、天皇は1165年に崩御した。1166年に内大臣となり、翌1167年2月に太政大臣になったが、福原の開拓に専念するため、わずか3か月で辞任した。嫡子の重盛が、同じ年に東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委ねられ、後継者の地位を示した。

1168年2月に病に倒れて3月に出家し、回復後は福原に別荘の雪見御所を造って、厳島神社の整備と日宋貿易の拡大に力を注いだ。平氏一門は全国に500あまりの荘園をもち、日宋貿易で莫大な財貨を手にした。娘の徳子は1171年に後白河法皇の猶子として入内した。しかし、清盛の勢力の伸びに院政の勢力は不快感を持ち、1176年の建春門院の死をきっかけに対立が深まった。1177年に鹿ケ谷の陰謀が起こると、清盛は院近臣を排除して、西光を処刑し、俊寛らを鬼界ヶ島に流した。1179年に娘の盛子と嫡子の重盛が相次いで亡くなると、後白河法皇が盛子の荘園と重盛の知行国を没収したため、11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、39名の公卿と院近臣を解任して、20日に法皇を鳥羽殿に幽閉した。後白河院政は停止された。1180年2月、娘の徳子の子の安徳天皇が即位したが、法皇の幽閉は多くの反平氏勢力を生み、以仁王が挙兵した。平氏打倒の兵が挙がるなか、清盛は病に倒れて没した。

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