伝記
マシュトラは、テパネカ人の中心的な都市国家アスカポツァルコの最後のトラトアニ(統治者)で、在位は1426年から1428年とされる。マシュトラトルとも呼ばれ、軽蔑して「マシュトラトン」とも呼ばれた。有名な王テソソモクの子で、母は王妃ツィワクショチツィン1世である。異母兄にタヤツィンがいた。
アスカポツァルコは、14世紀の後半からマシュトラの父テソソモクによって治められ、メキシコ盆地一帯に大きな勢力を持っていた。テソソモクは政略結婚によって多くの妻と子をもうけ、征服した重要な都市は息子たちに治めさせ、それほど重要でない都市の統治者には娘を嫁がせた。マシュトラは南のコヨアカンの君主であり、1410年にテソソモクからコヨアカンの統治を受けたとされる。1426年にテソソモクが死ぬと、テソソモクは子のタヤツィンを後継者に指名していた。当時のテノチティトランのトラトアニで、母方の祖父がテソソモクであるチマルポポカは、この後継を支持した。しかしマシュトラはテノチティトランに敵対的で、タヤツィンから権力を奪い、自らアスカポツァルコのトラトアニに即位した。コヨアカンの統治は子のテコロツィンに任せたという。マシュトラは恐怖政治を敷いた。
それからまもなく、チマルポポカはおそらくテパネカの手の者によって暗殺された。別の伝えでは、マシュトラに捕らえられて牢に入れられ、飢えて死んだとも、7月21日に処刑されたともいう。マシュトラはチマルポポカに女性の衣服を贈って侮辱したともされる。これ以降、テノチティトランとアスカポツァルコは敵対するようになった。マシュトラは、テノチティトランやテスココを従わせようとしたが、その地位は安定せず、すぐに別の反乱に直面した。
1427年、テノチティトランでは、チマルポポカに代わって経験豊富なイツコアトルがトラトアニに即位し、アスカポツァルコに対抗するため、父のイシュトリルショチトルをテソソモクに殺されたテスココのネサワルコヨトルと、テパネカの内部でマシュトラのライバルだったトラコパンのトトキワストリと同盟を結んだ。これがアステカ三国同盟で、のちのアステカ帝国の土台となった。1428年、同盟軍はアスカポツァルコを攻め滅ぼした。マシュトラは、ネサワルコヨトルに生け贄にされたともいわれるが、コヨアカンへ逃れて1430年に抵抗を組織し、同じ年に敗れたとする説や、タスコへ逃れて行方が分からなくなったとする説もあり、1428年に死んだとも、1430年に死んだともされる。アスカポツァルコは二流の都市となり、市場は奴隷の取引を専門とするようになり、住民はトラコパンへ移されたという。
同じ年に亡くなった人物
- 称光天皇 (1428年没)
- 辺景昭 (1428年)
- フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯) (1428年没)
- ルドルフ3世 (ハッハベルク=ザウゼンベルク辺境伯) (1428年)
- アンゼルム・トゥルメーダ (1428年(推定))
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