伝記
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは、イタリア中部のファブリアーノで生まれ、イタリア各地で活躍した画家で、国際ゴシック様式を代表する画家の1人とされる。生まれたのは1370年から1375年ごろとも、1360年ごろともいわれる。父はニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・マッシで、布の商人だった。母は1380年より前に亡くなり、父は同じ1380年に修道院へ引きこもって、1385年にそこで死んだので、ジェンティーレは幼くして孤児になった。
修業については、ファブリアーノの画家アレグレット・ヌッツィの弟子であったと考えられている。フランチェスクッチョ・ギッシらのファブリアーノの伝統から絵を描き始めたとされ、シエナ派の芸術に触れ、トスカーナの画家のもとで徒弟だった可能性も指摘される。若いころから、マルケ地方やロンバルディアの町を移り歩いた。1390年代にはパヴィアで学んだ可能性もあり、ファブリアーノのサン・ニコラ教会のために描かれ、現在ベルリンの絵画館にある『二人の聖人と寄進者のいる聖母子』(1395年から1400年ごろ)は、後期ゴシックのロンバルディアの文化との結びつきが強い。
1405年ごろからはヴェネツィアにいたと考えられ、商人の同信組合に加わった。確実に滞在したのは1408年から1414年のあいだである。1408年7月27日に、収集家フランチェスコ・アマーディのために描いた絵の代金が支払われたことが、ジェンティーレについての最初の確かな文書である。1408年から1409年にかけて、ドゥカーレ宮殿の大評議会の間の壁画を依頼され、『オットー3世とヴェネツィア人の戦い』を描き始めた。1410年ごろには、ファブリアーノ近郊のフランシスコ会の庵のために『ヴァッレ・ロミータの多翼祭壇画』(現在はブレラ美術館)を描き、これは最初の傑作とされる。壁画は1415年ごろに仕上がり、大きな名声を得た。この壁画は、ヴェネツィアの気候がフレスコ画を傷めやすいことから失われ、のちに布に描かれた絵に替えられた。1415年から1420年にかけて、ピサネッロが助手を務め、宮殿のフレスコ画を手伝った。ヤーコポ・ベッリーニもジェンティーレの工房で働いた。
1414年から1419年のあいだはブレシアで働き、その後フィレンツェに移って市民権を得て、1422年に、フィレンツェの画家も加入する職業組合に入会した。1420年から1423年ごろには『謙遜の聖母』を描き、1423年には、フィレンツェのサンタ・トリニタ教会のために『東方三博士の礼拝』(現在ウフィツィ美術館)を描いた。これが代表作である。豊富に使われた金彩と、人物の東方風の衣服の華麗な細部が、国際ゴシック様式の特徴をよく示す。この作品は合理的な遠近法を欠くものの、平面的に重ね合わされた情景を緻密に再現して、魅力的な空間を生み出している。マソリーノ、フラ・アンジェリコ、マサッチョら、同時代の画家たちが、この絵に注目した。1423年から1425年ごろには『聖ユリアヌスと聖ラウレンティウスのいる聖母子』を描いた。その後はシエーナで働き、オルヴィエートで祭壇画を制作したのち、ローマで働き、1427年にローマで没した。
同じ年に亡くなった人物
- チマルポポカ (1427年没)
- ステファン・ラザレヴィチ (1427年)
- ジャン4世 (ブラバント公) (1427年没)
同じ地域に関係する人物
- 大ドミティア・レピダ (59年没)
- レオ2世 (ローマ教皇) (683年没)
- レナート・カロゾーネ (2001年没)
- レオ10世 (ローマ教皇) (1521年没)
- Tatiana of Rome (226年没)