HISTORICAL PERSON · 59年没

大ドミティア・レピダ

アントニウスの孫娘で、皇帝ネロの伯母にあたる女性。ユニウス・ブラエスス家との婚姻などが伝わるが、生年は記録がなく推定にとどまる。

生涯
59年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ドミティアは、紀元前8年頃に生まれ、59年6月に没した古代ローマの貴婦人である。大ドミティアとも呼ばれる。大アントニアとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの長女で、三頭政治家マルクス・アントニウスとオクタウィア(小オクタウィア)の孫娘のうち最年長にあたる。皇帝アウグストゥスの曾姪であり、カリグラ帝のまたいとこ、クラウディウス帝のいとこ、皇后メッサリナの母方の叔母、そして皇帝ネロの父方の叔母でもあった。弟妹には、ドミティア・レピダ(小)と、32年の執政官となるグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスがいた。生年は記録に残っておらず、遅くとも紀元前7年と推定されるが、弟妹との年の差が大きかったなら、さらに10年ほどさかのぼる可能性もあるという。

結婚は何度かあったとされる。まずセイヤヌスの従兄弟にあたるクィントゥス・ユニウス・ブラエススと結婚し、のちにウィテリウス帝のもとで総督を務めたユニウス・ブラエススを産んだ可能性が指摘されている。ただしこの子はドミティアの孫だったとする見方もあり、さらに、ブラエスス家に嫁いだのはドミティアではなくサッルスティウス・クリスプスとの間の娘だったという仮説も出されている。次の夫は執政官デキムス・ハテリウス・アグリッパで、ティベリウスの恐怖政治の犠牲者として32年に死んだ。二人の間には、53年の執政官となるクィントゥス・ハテリウス・アントニヌスが生まれた。33年(23年頃ともされる)には、機知に富み、裕福で影響力のあったガイウス・サッルスティウス・クリスプス・パッシエヌスと結婚した。クリスプスは歴史家サッルスティウスの養孫で、血縁上は曾々甥にあたる人物である。

41年1月以後、クリスプスはドミティアと離婚した。亡命から戻ったばかりのアグリッピナ(小アグリッピナ)、すなわちドミティアのかつての義理の姉妹と結婚するためである。これによりクリスプスは、ドミティアの甥であるルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス、のちのネロの継父となった。クリスプスはまもなく謎めいた死を遂げ、巨額の財産をアグリッピナとその息子に残した。この離婚が、二人の女性の間に激しく長く続く憎しみの原因になったともいわれる。ドミティアはカリグラ、クラウディウス、ネロの三代を通じて、アグリッピナの有力な競争相手だった。55年には、愛人関係にあったとされる解放奴隷アティメトスと、舞踊家ルキウス・ドミティウス・パリスに、アグリッピナを重く告発させたが、結果には結びつかなかった。

ドミティアは非常に裕福で、バイアエとラウェンナに広大な所有地を持っていたが、クィンティリアヌスによればひどく吝嗇でもあった。ローマのテヴェレ川沿いにある「ドミティアの庭園」も彼女の所有で、のちにハドリアヌス帝がここに自らの墓廟を築かせた。アウグストゥス時代の祭壇アラ・パキスには、弟や両親とともに彼女の姿が刻まれている。

59年6月、ひどい便秘のため床に伏して亡くなった。その場にはネロが見舞いに来ており、ドミティアは、彼が髭を剃る日(通常21歳頃の儀式)が来れば、安らかに死んでもよいと語ったという。ネロは居合わせた人々に向かって「では、すぐに剃ろう」と冗談を返したとされる。噂では、その後ネロが医師に致死量の下剤を与えるよう命じ、死にゆく叔母の財産を奪ったともいわれるが、ミリアム・グリフィンら近代の研究者は、ネロが毒殺したという説を疑っている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物