伝記
チマルポポカは、メシカの都市国家テノチティトランの第3代トラトアニ(統治者)で、1417年から1427年まで在位した。名は「煙を吐く(ポポカ)楯(チマリ)」を意味する。1397年ごろの生まれとされ、20歳で王位に就いた。
父は第2代トラトアニのウィツィリウィトル、母はテパネカの都市国家アスカポツァルコのトラトアニであるテソソモクの娘アヤウシワトルである。ただし、一部の記録は、チマルポポカをテノチティトランの初代の統治者アカマピチトリの子とし、ウィツィリウィトルの弟だとする。当時のテノチティトランはアスカポツァルコに従属していた。テソソモクは強大な統治者であり、父の没後にチマルポポカがトラトアニを継げたのは、テソソモクの孫だったことが大きかった。1416年から1418年にかけて、テソソモクとテスココのトラトアニとの戦争が起き、このときテノチティトランが忠実だったことで、同盟関係と、テパネカの中でのメシカの地位は強まった。征服された都市はテノチティトランに貢納国として与えられた。山中で暮らしていたテスココの王子ネサワルコヨトルについては、チマルポポカがテソソモクに取りなしをし、テノチティトランで保護を受けて暮らすことをテソソモクが認めた。
父の時代から引き続き、チマルポポカの時代にもテノチティトランは発展し、建物はアドベではなく石で造られるようになった。最も注目すべき事業は、湖の外のチャプルテペクから島まで飲料水を運ぶ水道の建設である。1426年には、テソソモクが援助して、木造の新しい水道が造られたという。トラコパンまで通じる堤道も築かれ、堤道には開口部があって、木の橋がかけられ、橋は夜間は外された。トラココモコ地区には、生贄のための石も造られた。テキシュキアクを征服したともいわれる。その一方、戦争では目立った成果がなかった。
1426年にテソソモクが死ぬと、2人の息子タヤウ(タヤツィン)とマシュトラの間に継承争いが起きた。チマルポポカはこれに介入してタヤウを擁立したが、マシュトラ側が勝利し、チマルポポカは1427年に殺された。殺害のしかたについては諸説ある。最も単純な説では、チマルポポカを殺させたのはマシュトラで、マシュトラが送った者たちが、チマルポポカと息子テウトレウアクを殺したという。マシュトラの意に反してタヤウの王位を支持したために、敵意を買ったからだとされる。別の伝えでは、マシュトラが自分を殺そうとしていると知ったチマルポポカが、祭礼の衣装を着て自殺しようとしたが、マシュトラの手下が邪魔をして彼を檻に入れてアスカポツァルコへ連れ去り、のちに首をつって自殺したという。また、叔父で後継者のイツコアトルの意向で、トラコパンのテパネカに殺されたと伝える年代記もあり、現代の研究者の一部はこの説が筋が通っていると考える。
トラトアニの位は、叔父(ウィツィリウィトルの弟)のイツコアトルが継いだ。チマルポポカには何人かの妻と子がいたと伝えられるが、腹違いの弟モクテスマ1世が第5代トラトアニに即位したあと、チマルポポカの子孫が王位に就くことはなかった。子の1人はエカテペクの統治者となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ (1427年没)
- ステファン・ラザレヴィチ (1427年)
- ジャン4世 (ブラバント公) (1427年没)
同じ地域に関係する人物
- リベルタ・ラマルケ (2000年没)
- エクトル・ホセ・カンポラ (1980年没)
- トラカエレル (1487年没)
- パリス・ピスミス (1999年没)
- ベニート・フアレス (1872年没)