伝記
トマス・ボーフォートは、百年戦争のころのイングランドの軍司令官で、のちにエクセター公となり、一時は大法官も務めた人物である。1377年ごろに生まれた。父はランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、母はその愛妾で、のちに3番目の妻となるキャサリン・スウィンフォードで、2人の間に生まれた4人の子のうち3番目だった。サマセット伯ジョン・ボーフォートと枢機卿ヘンリー・ボーフォートは同母の兄、ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルの妃ジョウンは同母の妹であり、ランカスター朝を開いたヘンリー4世は異母兄にあたる。キャサリンの子らは当初は嫡出子と認められなかったが、事実上は1390年に、正式には1397年に、従兄のリチャード2世によって認められた。
1399年に異母兄ヘンリー4世が即位すると、翌1400年にトマスはガーター勲章を受けた。その後は軍歴を重ね、1402年にラドロー城の城守、1403年に北部方面艦隊の提督、1407年にカレー駐屯軍の司令官となり、1408年か1409年には北部と西部の海域の提督に任じられた。この時期の最大の仕事は、1405年の北方の反乱に対する討伐軍の指揮だった。1410年1月31日、ヘンリー4世の健康が悪化し、甥のヘンリー皇太子(のちのヘンリー5世)が実質的に政権を担うと、トマスは宰相にあたる大法官に就任した。1412年1月5日にこの職を終えて軍務に戻り、同年にドーセット伯となった。
1413年にヘンリー4世が崩御し、ヘンリー5世が即位すると、トマスはアキテーヌの代官に任命された。1415年のハルフルールの攻略では、王の軍をフランスへ運ぶための艦隊を整え、陥落したばかりの同市の駐屯軍司令官に任じられた。翌1416年はノルマンディーの代官として過ごし、同年にエクセター公に叙された。1417年、ヘンリー5世がまだノルマンディーに滞陣していたとき、エクセター公はスコットランド問題を解決するため、いったんイングランドに帰った。翌1418年には大軍を率いてノルマンディーに戻り、エヴルー、イヴリー、ルーアンの包囲戦に加わり、同年にアルクール伯に列せられた。1419年にルーアンが陥落するとその代官となり、周辺の多くの都市を征服した。その集大成として、同年、ルーアンとパリの中間にある要害ガイヤール城を、6か月の包囲戦ののちに奪った。
1420年にはトロワ条約を結ぶための交渉を手伝った。翌1421年、甥でヘンリー5世の弟であるクラレンス公トマスが殺されたボージェの戦いで捕虜になったが、ヘンリー5世が急死し、その遺言執行人の1人であったため、1422年にイングランドに戻った。以後は、ときどきフランスで過ごす場合を除いて、大甥にあたる幼いヘンリー6世を補佐する統治評議会に加わって働いた。トマスはランカシャーのハーンビーの騎士トマス・ネヴィルの娘マーガレットと結婚し、ヘンリーと名づけた1人の息子が生まれたが、若いうちに亡くなった。1426年12月31日ごろに死去し、子がなかったため、エクセター公位は1代で消滅した。シェイクスピアの史劇『ヘンリー五世』と『ヘンリー六世』第1部に登場する。
同じ年に亡くなった人物
- ピッポ・スパーノ (1426年)
- フーベルト・ファン・エイク (1426年没)
- シェモヴィト4世 (1426年没)
- カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ (1426年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード6世 (イングランド王) (1553年没)
- クリストファー・マーロウ (1593年没)
- ジョン・ポンド (1836年没)
- ウィレム・ファン・デ・フェルデ (父) (1693年没)
- ジョージ・ビドル・エアリー (1892年没)