伝記
クリストファー・マーロウは、エリザベス朝時代のイングランドの劇作家、詩人、翻訳家である。1564年2月26日にカンタベリーで洗礼を受け、1593年5月30日に29歳で没した。同じ年の4月に生まれたシェイクスピアと同時代の人で、華麗な無韻詩で知られ、代表作に『フォースタス博士』や『エドワード二世』がある。近代悲劇の先駆者、エリザベス朝演劇の創始者の一人ともいわれる。
父ジョンはカンタベリーの靴職人で、裕福ではなかったが、多くの子を育てるだけの収入があった。マーロウは15歳になる少し前にキングズ・スクールへ奨学生として入り、ラテン語を学んだ。1581年にはケンブリッジ大学のコーパス・クリスティ・カレッジに、大司教パーカーの設けた奨学金で入学した。聖職者になることを期待されたが、聖職や神学には関心を示さず、もっぱら文学に傾倒した。入学直後から戯曲を書き始め、『カルタゴの女王ダイドー』は在学中の作とされる。ローマの詩人オヴィディウスの『恋愛詩集』や、ルカヌスの『ファルサリア』第一部の英訳も行った。
1584年以降、大学を少なくとも二度、無断で長期欠席した。その間に密かにフランスへ渡り、ランスのカトリック教徒の集まりに加わって女王打倒の陰謀に関わったという噂が流れ、1587年の修士号の授与が危ぶまれた。ところが枢密院から、彼が「女王のために多大な働きをした」と記した書簡が大学に届き、修士号を得た。何をしていたのかは今も分からず、女王の諜報機関に関わっていたという説があり、頼った高官はフランシス・ウォルシンガムだったとも考えられている。
卒業後、文筆活動を本格化した。最初の成功は1587年に上演した『タンバレイン大王』で、中央アジアの征服者ティムールの生涯を題材に野心と征服欲を描いた悲劇であり、直後に第二部も発表した。ファウスト伝説による『フォースタス博士』は、この題材の戯曲としては世界初といわれる。ほかに『マルタ島のユダヤ人』『パリの虐殺』『エドワード二世』があるが、これらの執筆年代は正確には分からない。トマス・キッド、ロバート・グリーン、トマス・ナッシュ、ジョージ・チャップマンら、多くの文学者と交流した。
一方、生活は荒れていたとされる。1589年には隣人とトマス・ワトスンの間で起きた致死事件に巻き込まれて投獄され、間もなく無罪となって釈放された。1592年にはロンドンで巡査2人を脅したとして、誓約を命じられている。無神論を支持しているという噂もあった。1593年5月に、外国人襲撃を扇動する文書が貼り出され、逮捕された友人キッドの住居から見つかった無神論的な紙片を、キッドはマーロウのものだと主張した。5月18日に逮捕状が出たが、マーロウはケント州で逮捕されたが、投獄も拷問もされず、毎日枢密院への出頭を命じられただけだった。5月30日夜、デットフォードの居酒屋で勘定をめぐる喧嘩となり、イングラム・フライザーにナイフで眉間を刺されて死んだ。当局は不慮の事故として処理したが、謀殺説が有力視されている。その根拠として、フライザーがウォルシンガムの配下で、事件後の審理で速やかに正当防衛による無罪とされた点が挙げられ、時期は不明だが、リチャード・ペインズがマーロウの涜神的な言動を記した長いリストを当局へ提出していたともいう。ウォルター・ローリーを中心とする「夜の学派」との関わりから、関係者の秘密を守るために殺されたとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- Symon Budny (1593年)
- 正親町天皇 (1593年没)
- Abd al-Samad (1593年)
- ルートヴィヒ (ヴュルテンベルク公) (1593年没)
- 李時珍 (1593年没)
同じ地域に関係する人物
- モーリス・ウィルキンス (2004年没)
- グレンダ・ジャクソン (2023年没)
- ジョン・リルバーン (1657年没)
- ジョン・ポンド (1836年没)
- カンタベリーのアエルヘアー (1012年没)