伝記
フーベルト・ファン・エイクは、初期フランドル派の画家である。生年は1385年から1390年ごろとされ、1366年ごろとする説もある。弟は同じ初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクで、ヤンのほかに弟のランベルト、妹のマルハレータも画家だった。フーベルトがひとりで完成させたと確かめられている作品はないが、初期フランドル派の礎を築いた傑出した芸術家として、何世紀にもわたって高く評価されてきた。現在のベルギーにあたるフランドルのマーサイクの、地主階級の家に生まれたと考えられている。
フーベルトという名前はそれほどありふれていない。トンゲレンの聖母教会に残る1409年の板絵制作の支払記録にある「画家フーベルトゥス」が、フーベルトではないかといわれる。ヤン・デ・フィス・ファン・デル・カペレが1413年に死ぬ際に、フレーフェリンゲン近郊のベネディクト派女子修道院の修道女だった娘に板絵を残したが、その作者の「マスター・フーベルト」も、フーベルトのことだと考えられている。ただし、当時の芸術家ギルドの記録にフーベルトの名前は見当たらない。このことから、ギルドの一員ではなく、教会の下級聖職者だったのではないかとされている。おそらく、当時は修道院だった、ヘントのシント・バーフォ大聖堂と関係があるといわれる。1420年ごろまでには、ヘントに住んでいた。
ヘントへ移った前後の時期に、フーベルトが手がけたと記録に残る現存する唯一の作品、『ヘントの祭壇画』の制作を始めた。しかし、これを描き上げることなく、1426年9月18日に、おそらくは30歳代で死去した。1425年には、2点の絵画のデザインをフーベルトに依頼していたヘントの治安判事が、工房を訪れた記録がある。フーベルトの遺体は、シント・バーフォ大聖堂(当時は教会)の、すでに亡くなっていた妹マルハレータの隣に葬られた。墓には没年月日を刻んだ銅の墓碑銘が添えられたが、現存していない。16世紀の伝承では、フーベルトの腕が宝物箱に収められ、大聖堂の正門の上に遺物として安置されているともいわれる。『ヘントの祭壇画』が完成したのは、フーベルトの死後6年が経過した1432年だった。完成させたのは、弟のヤンである。1566年の偶像破壊運動で壊されたもとの額縁には、「上回る者はいない」画家フーベルト・ファン・エイクがこの祭壇画を描き始め、「二番目に優れた芸術家」ヤンが1432年に完成させたという、ヤンが記した銘が残されていた。
こうした事情から、現在も『ヘントの祭壇画』の主たる作者がフーベルトなのかヤンなのかが議論になっている。美術史家のブライソン・バローズは、フーベルトを「北方絵画の始祖」と評価し、『ヘントの祭壇画』ではフーベルトが下絵を担当し、その死後にヤンが絵画として仕上げたという説を、1933年に唱えた。この説の一部は、今の専門家からも支持されている。科学的な分析で、この祭壇画には何度も手が加えられ、現在の画肌の下に、上描きされた絵具の層と下絵があることが分かった。19世紀から20世紀初頭には、額縁の銘が額面どおりに受け取られ、ヤンが経歴の初期に描いた署名のない絵の多くが、フーベルトの作品と見なされていた。その後、作者の同定が大規模に見直され、それまでフーベルトの作とされた作品が別人の手によると分かった。20世紀の半ば以降に再びフーベルトの業績が高く評価されるようになったが、専門家の間でも評価には温度差がある。
同じ年に亡くなった人物
- ピッポ・スパーノ (1426年)
- カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ (1426年没)
- トマス・ボーフォート (エクセター公) (1426年没)
- シェモヴィト4世 (1426年没)
同じ地域に関係する人物
- マルグリット2世 (フランドル女伯) (1280年没)
- アルヌール2世 (フランドル伯) (987年没)
- ルディー・ダーネンス (1998年没)
- イサベル・デ・アウストリア (1525年没)
- フリッツ・ファン・デン・ベルヘ (1939年没)