伝記
マルグリット2世は、フランドル女伯で、エノー女伯でもあった。コンスタンティノープルのマルグリットとも呼ばれ、その波乱の生涯のために「黒い女伯」の異名を得たという。1202年6月2日に、ボードゥアン1世と、シャンパーニュ伯アンリ1世の娘マリーの間の次女として生まれた。父が第4回十字軍に出発したあとの誕生であり、母も2年後に夫を追って旅立ったため、姉ジャンヌとともに叔父のナミュール伯フィリップが後見した。母は1204年に、父は翌1205年にブルガリア皇帝カロヤンに敗れて獄中で亡くなり、姉妹は孤児になった。のちにフィリップは後見をフランス王フィリップ2世に委ね、パリで過ごす間に、姉妹はシトー会に親しんだ。
1211年、クシー領主アンゲラン3世が、ジャンヌとの結婚と、弟トマとマルグリットとの結婚を許してもらうため、王に5万リーヴルを払うと申し出たが、フランドルの貴族の反対で立ち消えになった。ジャンヌがポルトガルの王子フェルナンドと結婚したあと、マルグリットはエノーの有力貴族でアヴェーヌ領主のブシャール4世の保護を受けた。ジャンヌ夫妻は、マルグリットをソールズベリー伯の跡継ぎと結婚させようとしたが、ブシャールがフランス王の同意を得て防いだ。マルグリットはエノーの多くの市民の前で、ブシャール以外の夫は望まないと宣言し、1212年7月23日より前に結婚した。このとき12歳で、夫は28歳であった。
1214年のブーヴィーヌの戦いでフェルナンドが捕らわれると、ブシャールは妻の名で姉の相続分を要求し、ジャンヌはマルグリットの結婚を解消させようとした。フランス王フィリップ2世は教皇に、ブシャールが結婚前にすでに副助祭の位を受けていたと告げ、1215年の第4ラテラン公会議で、結婚は無効とされた。しかし二人は従わず、リュクサンブール伯の庇護のもと、アルデンヌのウファリーズ城に逃れた。その後の4年間に3人の息子が生まれた。そのうち1218年生まれのジャンは、のちにエノー伯となった。1219年の戦いでブシャールは捕らえられ、2年間投獄された。1221年に、妻と別れ、ローマで赦免を得ることを条件に釈放された。この間、ジャンヌはマルグリットを説き伏せて新しい結婚をさせ、1223年にシャンパーニュの貴族ダンピエール伯ギヨーム2世と再婚した。二人の間には5人の子が生まれ、長男ギヨームと次男ギーは、のちにフランドル伯となった。この結婚は、重婚の疑いがあり、近親婚の禁にも触れるとして、醜聞となった。二つの結婚での子の相続をめぐる争いは何十年も続き、継承戦争に発展した。
1244年に姉ジャンヌが子のないまま没し、マルグリットはフランドルとエノーを相続した。二つの結婚から生まれた息子たちの間で、相続の争いが始まった。1245年にフランス王ルイ9世に臣従の礼をとったとき、彼女は、ダンピエール家のギヨームを認めさせようとした。ジャンが反発して紛争を始めたが、1246年にルイ9世の調停で、フランドルはギヨームに、エノーはジャンに継がせると決まった。マルグリットは1247年にギヨームにフランドルを譲ったものの、ジャンにエノーを渡さなかったため、再び戦端が開かれた。1251年にギヨームが死去してフランドル女伯に復位し、1253年にギーが敗れると、ジャンが名実ともにエノー伯となった。しかし1257年にジャンが急死し、マルグリットはエノー女伯に復位した。1278年にフランドルをギーに譲り、1280年2月10日に没した。エノーは、孫のジャンが受け継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- パクパ (1280年没)
- ヤコポ・コンタリーニ (1280年)
- ニコラ・ピサーノ (1280年代没)
- アルベルトゥス・マグヌス (1280年没)
- ヨランド2世 (ヌヴェール女伯) (1280年没)
同じ地域に関係する人物
- ルシアン・ビュイス (1980年没)
- Pierre Carteus (2003年没)
- フランス・デ・ムルダー (2001年没)
- リタ・ゴア (2012年没)
- マルゲリータ・ダウストリア (パルマ公妃) (1586年没)