伝記
ロベール1世は、1011年にフランス王ロベール2世とコンスタンス・ダルルの子として生まれた。後のフランス王アンリ1世の弟で、老公とも呼ばれる。1030年、母に促されて兄アンリとともに父王に反旗を翻した。アンリがドルーの城を押さえたのに対し、ロベールはボーヌとアヴァロンを奪ったが、ディジョンのサン=ベニーユ修道院長ギヨーム・ド・ボルピアーノの仲介で父と和解した。翌1031年に父が死ぬと、今度は王位を継いだ兄と対立した。ロベールを王にしようとする母はブロワ伯ウード2世の支援を取り付け、サンリスやサンスなどを占領し、その半分を援助の見返りとしてウードに与えた。しかし、アンリはノルマンディー公の援助を受けて抵抗し、王位を守った。講和によってロベールにはブルゴーニュ公国が与えられ、1032年末から1033年初めにかけて公国の支配を確立した。
1033年頃、ロベールはスミュール家のダルマス1世の娘エリーと結婚した。又従妹にあたる妻との間には、ユーグ、アンリ、ロベール、シモンの四男と、娘コンスタンスが生まれた。エリーはクリュニー修道院長ユーグの姉妹でもあり、この結婚によってロベールは同院長と姻戚になった。一方、1039年にオセール司教ユーグが死ぬと、ロベールはオセール地方へ介入した。そこで対立したヌヴェール伯ルノー1世は、ロベールの姉アデライードの夫であった。1040年にルノーが死去した後、ロベールはオセールを支配するようになったが、ルノーの息子ギヨーム1世もその地に対する権利を主張し、争いは続いた。
1048年、ロベールは近親婚を理由にエリーと離婚し、スミュール家との関係を悪化させた。舅ダルマス1世の死については、ロベールが晩餐の席で口論の末、仲裁に入った義弟ジョスランとともに殺したとも、修道院を襲って殺したともいわれるが、その詳しい状況は明らかでない。エリーはマルシーニの修道院に入り、ペトロニーユと改名して余生を送ったとされる。ロベールは再婚相手に、アンジュー伯フルク3世の娘でガティネ伯ジョフロワ2世の未亡人エルマンガルドを迎えた。この妻も又従妹にあたり、二人の間には後にアキテーヌ公ギヨーム8世の妃となるイルドガルドが生まれた。
公国では小領主や教会領の自立が進み、ロベールは家臣を十分に統制できなかった。教会との争いも多く、オータン司教区の収入やディジョンの聖堂参事会の葡萄酒を奪い、修道院の土地や財産を侵害したため、破門を受けた。オセールをめぐる戦争では、1057年に長男ユーグの率いる公軍がサン=ブリを焼き、翌年にはロベール自身もブロワ伯ティボーの援助でサンジェルマン修道院を攻撃した。1058年には次男アンリを伴ってバルセロナを訪れている。長男ユーグはその後の戦闘で死去した。1060年のオータンの公会議を機にオセールでの争いは終息し、ロベールは同地への権利を放棄した。贖罪のため1060年から1064年の間にローマへ巡礼し、スミュール=アン=ノーソワの教会を建てたとされる。次男アンリにも先立たれた後、1076年3月21日に死去し、公位はアンリの長男ユーグ1世が継承した。
同じ年に亡くなった人物
- ラモン・バランゲー1世 (1076年没)
- ユースフ・ハーッス・ハージブ (1076年(推定))
- エルマンガルド=ブランシュ・ダンジュー (1076年没)
- スヴェン2世 (デンマーク王) (1076年没)
- ゴットフリート4世 (下ロートリンゲン公) (1076年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=アンドシュ・ジュノー (1813年没)
- ジャック・コポー (1949年没)
- オット=ギヨーム (ブルゴーニュ伯) (1026年没)
- ジャンヌ1世 (オーヴェルニュ女伯) (1360年没)
- ブルンヒルド (613年没)