伝記
ヤン・ジシュカは、1419年からボヘミアで起きたフス戦争の英雄で、チェコの国民的英雄とされる人物である。1360年頃に生まれ、1424年10月11日に没した。隻眼であったため「隻眼のジシュカ」と呼ばれ、晩年には全盲になったとされる。
生まれたのはボヘミア王国のトロツノフ村で、家はチェコの下級貴族に属したが、所領は多くなかった。家紋にはザリガニがあしらわれていた。生年ははっきりせず、1378年の婚姻文書に証人として名が見えることから、1360年頃と推定されているが、これが同一人物かどうかは直接の証拠がなく、疑問も出されている。1378年から1384年にかけての財産文書には長く続く金銭的困窮がうかがわれ、その後の20年ほど、名は史料から消える。この間に傭兵になったと考えられている。没落した小貴族であったが、智勇兼備の人物で、次第に頭角を現した。1410年7月15日のグルンヴァルトの戦いにも、ボヘミアの義勇兵に加わってポーランド王国側で戦い、ラジンをドイツ騎士団から守ったとされる。その後はボヘミア王ヴァーツラフ4世の軍事顧問になったといい、王妃ゾフィーの侍従を務めたという記録も伝えられている。
そのころプラハでは、教会の腐敗を批判する宗教改革者ヤン・フスが活動しており、ジシュカはその思想に心酔していったと考えられる。1415年にフスが異端として火刑にされると、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝ジギスムントへの反感を強めたフスの信奉者たちを率い、カトリック派を攻撃した。1419年のプラハ窓外放出事件にも関わったといわれる。ヴァーツラフ4世の死後にジギスムントがボヘミア王に即位すると、これに反抗してフス戦争を引き起こした。1420年には、迫害を逃れてきた民衆をボヘミア南部の山中に集めて城塞都市ターボルを建設し、フス派の急進派であるターボル派を結成した。
ジシュカの軍は、信仰に基づく厳格な軍紀と、携帯できる初期の銃や大砲、装甲馬車などの新兵器で無類の強さを発揮した。装甲馬車は、農業用の荷車に厚板の銃眼付き胸壁を備えたもので、戦闘時には輪状に連結して簡易な城塞とした。地形の偵察と利用にも優れ、優位を確保できたときにしか戦わないことが多かったと後世の著述家は伝える。1420年のスドムニェシュの戦いとヴィートコフの丘の戦いで指揮をとり、1421年のクトナー・ホラの戦いでは神聖ローマ帝国とハンガリーの軍を破った。ジギスムントの軍や、フス派撲滅のための十字軍も、何度も彼の前に大敗し、生涯敗れなかったとされる。
フス派の内部には、聖書原理主義のアダム派のような過激な急進派から、カトリックとの宥和をはかる富裕層を中心とした穏健派まで、様々な集団が混在していた。ジシュカ自身も1423年にターボル派から距離を置き、オレープ派を結成している。彼は対応に苦慮したが、強大な軍事力を背景に諸派を統率し、1424年には穏健派との戦いに勝って、全フス派の事実上の指導者となった。しかし同年、モラヴィア遠征中にペストにかかり、間もなく死去した。彼を慕う兵士たちは自らを「孤児」と称し、その戦術を継いでフス戦争を戦い続けた。プラハのヴィートコフの丘には彼の騎馬像が建てられ、旧チェコスロバキアの紙幣にも肖像が使われた。
同じ年に亡くなった人物
- Isabella of Aragon (1424年没)
- ブラッチョ・ダ・モントーネ (1424年)
- 後亀山天皇 (1424年没)
- アブドゥルカリーム・ジーリー (1424年没)
- エルンスト (オーストリア公) (1424年没)
同じ地域に関係する人物
- Otokar Brezina (1929年没)
- ヤロスラフ・ハシェク (1923年没)
- Antonin Sova (1928年没)
- Josef Augusta (2017年没)