伝記
エルンスト鉄公は、ハプスブルク家の内オーストリア公である。1377年ごろに生まれ、内オーストリア公レオポルト3世と、妻ヴェルデ・ヴィスコンティとのあいだの三男とも四男ともいわれる。ヴェルデは、ミラノの領主ベルナボ・ヴィスコンティと、ベアトリーチェ・レジーナ・デッラ・スカラの娘である。のちに神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ3世の父にあたる。「鉄公」の呼び名は、没後になって広まったものである。
1386年、父はスイス盟約者団との激しい戦いであるゼンパハの戦いで戦死した。エルンストと兄弟たちは、当時ハプスブルク家の全領地の君主だった叔父の後見を受けた。1392年に、ポメラニア公ボグスワフ5世の娘マルガレーテと結婚したが、子をもうけないまま死別した。1395年に叔父が亡くなると、兄のヴィルヘルムが、内オーストリアの返還を従兄に求めた。1401年には、国王に従ってイタリアに赴き、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと戦った。
1406年に兄のヴィルヘルムが亡くなると、エルンストはまずシュタイアーマルクを手に入れた。そして弟のフリードリヒとともに、従弟の後見人の座を確保した。このやり方に、兄弟のあいだで内戦が起こり、1407年に始まった内戦は、国王ジギスムントの仲裁の裁定によって、ようやく収まった。1411年にハプスブルク家の領地が分けられた結果、エルンストはシュタイアーマルク、ケルンテン、クラインの3つの公国の単独の君主となり、内オーストリアを治めた。ドナウ河畔のオーストリア公国はアルブレヒト系の従弟が治め、弟のフリードリヒは前オーストリアとチロル伯領を保った。エルンストは、スロベニア語で行われた伝統的な儀式でケルンテン公として戴冠し、この時から大公の称号を名乗った。ハプスブルク家で初めてこの称号を使った人物だが、ジギスムントの宮廷は認めなかったものの、特に問題にはされなかった。
1412年に、マゾフシェ公シェモヴィト4世の娘ツィンバルカと再婚した。シェモヴィト4世は、ポーランド女王ヤドヴィガが、エルンストの兄ヴィルヘルムとの婚約を破棄されたあとに、結婚相手の候補とした人物でもある。夫妻のあいだには、フリードリヒ3世、マルガレータ、アルブレヒト6世ら9人の子が生まれた。1412年からジギスムントとの争いが続き、1415年のコンスタンツ公会議で、弟のフリードリヒがジギスムントに追放を宣告されると、エルンストはまず弟の領地を占領しようとしたが、のちに和解した。そしてチロルを国王の軍から守り、その強硬な態度で、ジギスムントに要求の大半を取り下げさせた。1424年6月10日、ブルック・アン・デア・ムーアで亡くなり、墓はグラーツ近郊のライン修道院にある。ツィンバルカとの子孫が、のちのハプスブルク家のすべての祖となった。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥルカリーム・ジーリー (1424年没)
- Isabella of Aragon (1424年没)
- ヤン・ジシュカ (1424年没)
- 永楽帝 (1424年没)
- ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯) (1424年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤーコプ・ローバー (1864年没)
- Rudolf Stoger-Steiner von Steinstatten (1921年没)
- カタリーナ・レナータ・フォン・エスターライヒ (1599年没)
- フリードリヒ・ライニッツァー (1927年没)
- ウラジミール・ペーター・ケッペン (1940年没)