伝記
ウラジミール・ペーター・ケッペンは、1846年9月25日、帝政ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた、ドイツとロシアの気象学者・気候学者であり、植物学者でもある。両親ともにドイツ人の家系だった。祖父ヨハン・フリードリヒは、エカチェリーナ2世に招かれてロシアに来たドイツ人医師の一人で、のちに皇帝の侍医になった。父ペーターはロシアの歴史研究家であり、地理学者、民族学者でもあって、西ヨーロッパのスラヴ学者とロシアの学者の知的交流に貢献した人物である(1793年-1864年)。ケッペンは20歳までサンクトペテルブルクで暮らし、中等教育はクリミアのシンフェロポリで受けた。一家がクリミア海岸に持っていた地所へ頻繁に旅するなかで、植物と地理の多様さや、首都と故郷の風土の差が、気候と自然界の関係への関心を呼び覚ましたとされる。
1864年にサンクトペテルブルク大学で植物学の研究を始め、1867年にハイデルベルク大学に移り、ライプツィヒ大学でも学んだ。1870年にライプツィヒ大学で、気温が植物の成長に及ぼす影響を扱った論文を提出して学位を得た。普仏戦争ではプロイセンの救急隊に加わり、その後ロシアの中央物理観測所で働いた。1872年から1873年までロシア気象局で助手を務め、日々の天気図の作成を手伝った。ドイツの科学者で探検家でもある人物の誘いで、1875年にドイツに戻り、帝国成立後に新設されたハンブルクのドイツ海洋気象台で、海上気象部長になった。ここでは総観気象学をドイツに導入し、ドイツ北西部と隣接する海上の天気予報を受け持った。4年間勤めたのち、一番興味のあった基礎研究に移るため気象調査課長に移り、1919年に退職するまで気象や低気圧の研究を行った。
1882年には、ドイツ海洋気象台にいた数学者メラーと、スウェーデンの気象学者が集めた高層雲の観測結果を使い、低気圧の熱的に非対称な温度構造が、前面での暖気の上昇と後面での寒気の下降を引き起こしていると考えた。低気圧内の温度分布と気圧分布を初めて推定し、熱的構造を明らかにした。海上気象部を去ってからは、気候について体系的に勉強を始め、気球を使って上空の大気も調べた。1884年に気温の季節変動を示す最初の気候区分地図を発表し、これが1900年ごろまでに、生涯をかけて改良したケッペンの気候区分に発展した。完全版は1918年に出版され、1936年に最終版が出た。この区分の特徴は、植生、とくに高等植物と気候を結びつけた点にあり、熱帯多雨気候、乾燥気候、温帯多雨気候、積雪寒冷気候、極地気候の5つの気候群を、5つの主な植生帯に対応するものとして示した。農業から社会・経済、人文諸科学まで幅広く実用に供された。
古気象学の分野でも功績があり、1924年には義理の息子で教え子でもあるアルフレート・ヴェーゲナーと『地質時代の気候』を発表し、ミルティン・ミランコビッチの氷期の理論を強く支持した。1890年には最初の雲の図鑑を共同で著し、500を超える論文を書いた。土地利用や学校改革、貧しい人々の栄養といった社会問題にも力を注ぎ、世界平和のためにエスペラントの使用を強く支持して、自著の幾つかをエスペラントに訳した。晩年はドイツ人気候学者と協力して全5巻の『気候学ハンドブック』を執筆し、完結しなかったが、3巻分はケッペンによるものである。1940年、グラーツで没した。没日は7月22日とも6月22日ともいわれ、食い違っている。
同じ年に亡くなった人物
- フレデリック・クック (1940年没)
- メアリー・アンダーソン (1940年没)
- イサーク・バーベリ (1940年没)
- ヨゼフ・フランチシェク (1940年没)
- ラ・ヤーナ (1940年没)
同じ地域に関係する人物
- Norbertine Bresslern-Roth (1978年没)
- ゾフィー・ホーエンベルク (1990年没)
- ヘンリエッテ・フォン・リヒテンシュタイン (1931年没)
- マリアーナ・トロク (1968年没)
- リヒャルト・フォン・クラフト=エビング (1902年没)