伝記
ハリール・スルタンは、ティムール朝の第2代君主(在位1405〜1409年)である。1384年にヘラートで生まれた。王朝の創始者ティムールの孫で、ティムールの三男ミーラーン・シャーの子にあたる。母のソユン・ベグはジョチ家の血を引き、はじめティムールの長男ジャハーンギールの妻であったが、夫の死後、ティムールの命でミーラーン・シャーと結婚した。
1398年から1399年にかけてのティムールのインド遠征で軍功を挙げ、フェルガナの総督に任じられた。1404年から始まったティムール最後の東方遠征には、右翼軍の指揮官として加わり、タシュケントに駐屯した。1405年2月、ティムールは行軍中にオトラルで亡くなり、死の間際に、ハリールの従兄弟ピール・ムハンマドを後継者に指名した。ピール・ムハンマドはカンダハールにいて、首都サマルカンドへの帰還に時間がかかったため、ハリールはその間隙をついた。オトラル近くにいたティムールの甥スルターン・フサインもサマルカンドへ進軍したが、ハリールは財産の分配と引き換えに、アミールたちやサマルカンド知事アルグン・シャーの支持を取り付け、アルグン・シャーは他の王族の入城を拒んだ。ハリールは、ティムールの遺言を守るという宣誓書を記し、1405年3月18日にサマルカンドに入城した。内城と首都に蓄えられた莫大な財産を接収し、テュルクとモンゴルの慣習に従ってティムールの盛大な葬儀を営んで、自らがその後継者であることを示した。
サマルカンドでは、ティムールから後継者に指名されていたムハンマド・スルターンの遺児で、9歳のムハンマド・ジャハーンギールを、名ばかりのハンに立てた。勅令はそのハンの名で出し、貨幣やフトバには自分の名を入れた。ハリールはマー・ワラー・アンナフルを押さえたが、ホラーサーンを治めるティムールの四男シャー・ルフは、遺言を無視した動きに反発した。帝国は、ハリールらミーラーン・シャーの一門を支持する派と、遺言を守るシャー・ルフの派に分かれた。1406年2月、ハリールはカルシ郊外の戦いでピール・ムハンマドを破り、翌1407年2月には、謀略を用いてピール・ムハンマドを殺害した。
ハリールは、シャーディー・ムルクを妃に迎えて寵愛した。国政には彼女の意向が強く反映され、気に入った身分の低い者が重く用いられて、ティムールの側近や未亡人、側室は軽んじられたと言われる。遺言に背いたハリールの一門から離れる人が増え、飢饉によって民衆の不満も高まった。東北部では、ジャライル部のシャイフ・ヌールッディーンが、モグーリスタン・ハン国の有力者ホダーイダードと結んで反乱を起こし、オトラル、タシュケント、アンディジャンなどが反乱軍の手に落ちた。ハリールは何度も遠征したが失敗し、ホダーイダードはシャー・ルフと連合してハリールを攻めた。1409年3月、ハリールはホダーイダードの捕虜となった。同年5月13日、シャー・ルフが主のいないサマルカンドに入城した。
シャー・ルフの即位後、ハリールはイランのレイの総督に任じられ、シャー・ルフに捕らえられていたシャーディー・ムルクも返された。1411年11月、ハリールは任地のレイで亡くなった。没日は3日とも4日ともされ、27歳であった。病死とする記録のほか、シャー・ルフに毒を盛られたと伝える記録もあるが、シャー・ルフが関与したとは考えにくいとされる。夫の死後、シャーディー・ムルクは短剣を首に突き刺して後を追ったと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- タテブのグリゴル (1411年(推定))
- メルキオール・ブルーデルラム (1411年(推定))
- ハスダイ・クレスカス (1411年(推定))
- スレイマン・チェレビー (1411年没)
- ヨープスト・フォン・メーレン (1411年没)
同じ地域に関係する人物
- Abd al-Jabbar ibn Ahmad (1025年没)
- ゴラム・ホセイン・マズルーミ (2014年没)
- アレクサンドル・グリボエードフ (1829年没)
- シャー・ルフ (1447年没)
- ニーマー・ユーシージ (1960年没)