伝記
李成桂(イ・ソンゲ)は、李氏朝鮮の始祖で初代の国王である。1335年10月27日、双城総管府の咸州で、李子春と永興崔氏の子として生まれた。若いころの記録は少なく、弓術にすぐれ、北方の野人から畏れられたという伝説が伝わる。1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われた領土の収復を進めた。当時、元の千戸の地位にあった父の李子春はこの政策に進んで協力し、高麗軍が双城を攻めると内部から呼応して、これを容易に陥落させた。一族は高麗に復帰した。父は1360年に46歳で死んだが、すでに武将となっていた成桂は、翌年に朴儀の反乱を鎮めて功を立てた。1361年には10万の紅巾軍が首都開京を占領し、成桂は2000人を率いて開京一番乗りを果たした。元の大軍も咸興平野で殲滅した。
1362年、元の納哈出が高麗の西北部に侵入すると、成桂は東北面兵馬使として2月にこれを撃破し、7月に再び来た納哈出をも破って侵入を断念させた。1364年には、崔儒が率いる元軍を崔瑩らとともに国境近くで退け、同じ年に和州以北を占領していた女真族を討って領土を奪還した。このとき文官として従軍したのが、親友でのちに対立する鄭夢周である。1370年には東寧府を攻め、元の遼陽まで制圧した。南の倭寇との戦いでも、1377年に智異山で倭寇を殲滅して名声を固め、1380年には500隻で侵入した倭寇の首領阿只抜都を、引月駅で破った。
1388年、明が鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してくると、王禑と崔瑩は遼東を支配下に置いて圧力を退けようと計画した。成桂は右軍都総使に任じられ前線を担ったが、4つの不可論を挙げて出兵に反対した。それでも王禑は崔瑩に従って遠征を始めた。5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に着いたが、大雨で川を渡れず、逃亡兵が相次ぎ、食糧も不足した。成桂は撤退を求めたが認められず、独自に軍を引き返した(威化島回軍)。回軍を聞いて2000人以上が駆けつけ、民衆も回軍を歓迎した。6月1日に開京へ着いた成桂は、王禑に責任を問い、崔瑩の処罰を求めたが、王禑が成桂らを殺した者に褒賞を与えるという触書を出したため、王宮を攻めて崔瑩を捕らえた。王禑は権力を失い、子の王昌が王位に就いた。1389年に恭譲王が擁立されると、王昌と王禑は処刑された。成桂は鄭道伝や趙浚らとともに、1390年から田制改革を強行した。
1392年7月、新興官僚層に推戴された成桂は即位し、恭譲王を追放した。当初は国号を高麗のままとし、「権知高麗国事」と名のって、明との関係の改善に努めた。明の洪武帝は国号を変えるよう命じ、成桂が「和寧」と「朝鮮」の2つを示したところ、1393年に朝鮮を選んだ。成桂は権知朝鮮国事に封じられた。1394年に漢陽(現在のソウル)へ遷都し、儒教を重んじ仏教を抑える政策を進めて、朱子学を国教とした。同じ1394年、恭譲王は処刑され、王氏の一族の多くも殺されたとされる。
成桂は、八男の李芳碩に後を継がせようとし、建国に奔走した神懿王后韓氏の生んだ王子たち、とりわけ五男の李芳遠が反発して、1398年に乱を起こした(第一次王子の乱)。李芳碩と鄭道伝は殺され、成桂は次男の李芳果(定宗)に譲位して退位した。1400年には四男の李芳幹が反乱を起こし、これも李芳遠が鎮圧し、乱の後に李芳遠が王位を譲られて即位した(太宗)。王子たちの争いに苦しんだ成桂は、晩年は仏門に入った。1401年に太宗が明に朝鮮国王として冊封されたことで、成桂は死後に初代の国王の称号を贈られた。1408年6月18日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- 足利義満 (1408年没)
- ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯) (1408年没)
- ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ (1408年没)
- ヴィルヘルム1世 (ベルク公) (1408年没)
同じ地域に関係する人物
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- 金東仁 (1951年没)
- 兪吉濬 (1914年没)
- 金寿煥 (2009年没)
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