伝記
淳和天皇は、786年(延暦5年)に生まれ、840年6月11日(承和7年5月8日)に没した日本の第53代天皇である。在位は823年から833年まで。諱は大伴、西院帝とも呼ばれる。桓武天皇の第七皇子で、母は藤原百川の娘の旅子、平城天皇・嵯峨天皇の異母弟にあたる。2歳で生母を失ったため、これを哀れんだ桓武天皇は、有能な女官であった文室与伎の妻、平田孫王に母代わりとして養育させたという。798年4月に殿上で元服し、803年正月に三品に叙された。
806年3月に父の桓武天皇が崩御して平城天皇が践祚すると、大伴親王は同年5月に臣籍降下を願い出たが、新帝に却下された。その直後に治部卿に任じられ、808年には中務卿となった。810年、平城太上天皇の変の後に平城上皇の子の高岳親王が皇太子を廃されると、その代わりに嵯峨天皇の皇太弟に立てられた。皇后所生ではなかったものの、生母は皇后と同じ藤原式家の出身であり、皇后所生の異母妹の高志内親王を妃として恒世親王をもうけていたことや、嵯峨天皇との関係が良好だったことが背景と考えられている。一方、本人は他戸親王や早良親王のように皇位継承の争いに巻き込まれることを恐れて積極的ではなく、臣籍降下の上表もその表れとみる研究者もいる。
823年4月16日(5月29日)、嵯峨天皇の譲位を受けて即位した。即位の儀礼の様子は『淳和天皇御即位記』によって伝わる。この即位にともない、大伴氏は天皇の諱を避けて伴氏と改姓した。『日本後紀』が散逸したため治世の詳細には不明な点が多いが、清原夏野ら良吏を積極的に登用して地方政治の荒廃を正し、土地対策を行って税収の増加に努めたとされる。『令義解』や『日本後紀』の編纂もこの時期に行われ、表面的には比較的平穏な時代であった。
833年3月22日(天長10年2月28日)、仁明天皇に譲位して太上天皇となり、淳和院に移った。追号の「淳和」はこの在所に由来し、淳和院の別名が西院であることから西院帝の異称がある。のちには源氏の長者が淳和院の管理者を務め、その院は学問の場として知られる施設になり、やはり「西院」とも呼ばれたという。即位後の淳和天皇は、自身の子の恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子の正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子に立てた。恒世親王は在位中に病死し、仁明天皇は淳和上皇と嵯峨天皇の皇女正子内親王の間に生まれた恒貞親王を皇太子とした。上皇は、有力貴族の後ろ盾のない恒貞親王の立場に不安を抱いていたとされ、忠実な側近の藤原吉野に後事を託した。その不安は、上皇の崩御後に起こった承和の変として現実のものとなった。
840年6月11日、55歳で崩御した。薄葬を遺詔したため火葬され、遺骨は藤原吉野の手によって大原野の小塩山の山頂付近で散骨された。山陵を築くことも禁じたので、「延喜諸陵式」には陵墓が記されず、崩御後に散骨された天皇は淳和天皇だけである。伝えによれば、亡くなる前に皇太子の恒貞親王へ、人が死ねば魂は天に帰るが、空の墓は鬼や悪霊を招きかねないので、墓を築くべきではないと語ったともいわれる。小塩山は長岡京の時代に天皇陵の築造予定地とみなされた北郊の範囲に含まれ、生母の藤原旅子や祖母の高野新笠の陵墓とも離れていないことから、散骨地の選定に影響した可能性も指摘されている。幕末の陵墓修復の際に、小塩山山頂付近に大原野西嶺上陵が築かれた。皇居の皇霊殿では、ほかの歴代天皇や皇族とともにその霊が祀られている。