HISTORICAL PERSON · 1045年没

後朱雀天皇

第69代天皇。後一条天皇の跡を継ぎ、頼通の養女嫄子を中宮に立て史上初の一帝二后を実現したが、着手した荘園整理令は結果的に権門擁護策に終わった。

生涯
1045年没
死亡地
日本(京都府 / 東三条殿)
出生地
日本(土御門殿)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

後朱雀天皇は、日本の第69代天皇である。十世紀の朱雀天皇にちなみ、「後」を冠して呼ばれる。諱は敦良、幼名は犬宮といい、1009年12月14日(寛弘6年11月25日)に生まれた。一条天皇の第三皇子で、母は藤原道長の娘で中宮の彰子である。同じ母から生まれた兄に後一条天皇がいる。后妃との間には、五人の皇女と二人の皇子が生まれた。皇女のうち、良子内親王は伊勢斎宮、娟子内親王は賀茂斎院を務め、のちに娟子は源俊房の妻となった。嫄子が産んだ祐子内親王と禖子内親王のうち、禖子は六条斎院となり、五女の正子内親王は1045年に生まれて押小路斎院を務めた。

兄の後一条天皇の即位にともなって皇太子となったのは敦明親王であったが、寛仁元年(1017年)に自ら皇太子を辞退したため、敦良親王がその後を受けて皇太子となった。同5年(1021年)には、道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内した。嬉子は万寿2年(1025年)に18歳の若さで懐妊し、出産の直前に疫病にかかったが、第一皇子の親仁(のちの後冷泉天皇)を産み、その2日後に世を去った。その後、道長の外孫で従姉妹にあたる禎子内親王が入内し、10代で皇女を二人産んだのち、21歳の長元7年(1034年)に第二皇子の尊仁(のちの後三条天皇)を産んだ。一方、後一条天皇は中宮の威子との間に皇子を儲けないまま崩御した。長元9年(1036年)4月17日(5月15日)、敦良親王はその後を受けて即位した。

即位後、関白の藤原頼通は養女の嫄子(敦康親王の長女)を入内させた。さらに、中宮となっていた禎子内親王を格下の皇后に押し上げる形で嫄子を中宮に立て、一帝二后を実現した。しかし嫄子は皇女を2人産んだ9日後に崩御した。その後、頼通の兄弟である藤原教通と藤原頼宗が、それぞれ娘の生子(梅壺女御)と延子(麗景殿女御)を相次いで入内させたが、二人とも皇子を産むことはなかった。生子と延子は、いずれも天皇の崩御後に女子を産んだのみであった。

この時期は荘園の増加で国家財政が危機的な状態にあり、その整理が求められていた。荘園の主たる領主は頼通ら権門であった。天皇は長久元年(1040年)に荘園整理令に着手したが、結果としては権門を擁護する策に終わったとされる。ただし、荘園の増加を抑える面での成果には肯定的な見方もある。在位中の元号は、長元、長暦、長久、寛徳と改められた。このころの朝廷では、左大臣の藤原頼通、右大臣の藤原実資、内大臣の藤原教通らが政務の中枢にあった。

治世のあいだ、皇后の禎子内親王とその皇子の尊仁親王は、関白らから冷遇されていた。天皇は里内裏の東三条第で病に倒れ、譲位を決断した。このとき、皇后を支援していた藤原能信の働きによって、尊仁親王を次の皇太子とするよう遺詔を発したと伝えられる。病は肩の悪性腫瘍であったという。寛徳2年1月16日(1045年2月5日)、親仁親王に譲位して太上天皇となり、その2日後に出家し、同じ日に崩御した。37歳であった。在位は9年ほどであった。陵は、京都市右京区の龍安寺の境内にある円乗寺陵に、宮内庁によって治定されている。形式は円丘である。龍安寺には他の天皇の陵も並び、七陵と呼ばれる。実際の墓所の場所は不明ともいう。1945年(昭和20年)2月13日には、宮城の賢所仮殿で九百年式年祭の拝礼が行われ、陵所でも山陵九百年式年祭の儀が営まれた。

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