伝記
イブン・ハンバルは、9世紀のムスリムの神学者、法学者である。預言者ムハンマドの言行であるハディースを収集・編纂し、ハンバル学派法学の基礎を築いた。父系はアラブ部族ラビーア族に属するバヌー・シャイバーン家とされ、祖父のハンバル・ブン・ヒラールはウマイヤ朝下でサラフスを治め、アッバース家を奉じる革命運動に最初期から関わった人物であった。父ムハンマドはホラーサーン軍に属し、軍命によりバグダードへ移り、その数か月後の西暦780年12月にアフマドが生まれた。父は幼いころに亡くなり、母が父方の親族の助けを得て育てた。
バグダードで教育を受けた彼は、諸学の中でもハディース伝承の研究に生涯を捧げると決め、795年ごろに旅に出た。青年期にイラン、ホラーサーン、マグレブまで遍歴したという話もあるが、これは伝説の類とされる。実際にはイラク、ヒジャーズ、イエメン、シリアを訪れ、特にバスラには何度も立ち寄った。訪問の頻度がさらに高かったのはメッカで、巡礼のために計5回訪れている。師は極めて多く、ヒジュラ暦179年から183年までバグダードでフシャイム・ブン・バシールに日常的に教えを受けた。183年以後は、ヒジャーズ派の重鎮スフヤーン・ブン・ウヤイナが主に彼を導いた。40歳に届くまで結婚せず、それは学問と旅に明け暮れたためだと伝えられる。
同時代のシャーフィイーは年上であったため、イブン・ハンバルはその弟子だとよく言われる。たしかに二人はヒジュラ暦195年にバグダードで、生涯でただ一度だけ直接会っている。だが、イブン・タイミーヤは彼がヒジャーズの伝承重視の思想に最も強い影響を受けたと指摘しており、シャーフィイーの弟子とする見方は事実を単純にしすぎるものとされる。
彼にとって、カリフのマァムーンの治世の終盤から次代のムゥタスィムの時代にかけては迫害の時代となった。マァムーンはムゥタズィラ派の意見を入れてその教説を国家公認とし、クルアーンは創造されたものだという説を掲げた。イブン・ハンバルはこれに激しく反発し、正統に反すると説いた。この話はタルスースにいたマァムーンの耳に入り、彼は別の批判者ムハンマド・ブン・ヌーフとともに鎖でつながれ、カリフの面前へ送られることになった。ところがアッカを過ぎたあたりでマァムーン死去の報が届き、二人はバグダードへ戻された。過酷な旅の中でムハンマド・ブン・ヌーフは死に、生き残った彼はバグダードの複数の牢獄をたらいまわしにされた。ムゥタスィムはミフナ(異端審問)を廃止するつもりだったが、ムゥタズィラ派の法官長の意見を容れて彼を呼び出したと言われる。ヒジュラ暦219年のラマダーン月、彼はクルアーンが作られたものだと信じることを頑固に拒み、鞭打たれて2年間投獄された。出獄後も、ムゥタスィムの世の間は自邸にこもって個人的にハディースを教えるだけであった。次代のワースィクの間も同様で、ムタワッキルが即位した847年以後、公の場に姿を見せるようになった。
855年7月、彼は病に倒れ、まもなくバグダードで亡くなった。75歳であった。葬儀には何万人もの人が参列し、数千人のユダヤ教徒やキリスト教徒がその日に改宗したと伝えられる。彼が生涯にわたって集めたハディースは、息子や弟子たちの集成分を含めて『ムスナド』にまとめられた。これは伝承した教友ごとに配列するハディース集の様式で、スンナ派で非常に信憑性の高い書として尊重されてきた。その思想はイブン・タイミーヤやワッハーブ派の運動などにも影響を及ぼしたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Boso the Elder (855年)
- レオ4世 (ローマ教皇) (855年没)
- ロタール1世 (フランク王) (855年没)
同じ地域に関係する人物
- アブル・ワファー (990年代没)
- アリー・イブン・フサイン (1935年没)
- アフマド・ハサン・アル=バクル (1982年没)
- Abu Hayyan al-Tawhidi (1023年没)
- ムッタキー (968年没)