HISTORICAL PERSON · 1958年没

フレデリック・ジョリオ=キュリー

フランスの原子物理学者。妻イレーヌと世界初の人工放射性同位元素の合成に成功し、1935年に夫婦でノーベル化学賞を受賞した。

生涯
1958年没
死亡地
フランス共和国(パリ / サンタントワーヌ病院)
出生地
フランス共和国(16区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリーは、1900年3月19日にパリで生まれたフランスの原子物理学者である。6人きょうだいの末っ子で、父アンリ・ジョリオは商人であり、普仏戦争を戦い、敗戦後はパリ・コミューンの側で戦ったという。母エミリー・ロデレールはアルザス出身のプロテスタントであった。1908年にソーのラカナル高等中学に入り、9年間学んだのち、市立の物理化学工業学校に1919年に入学した。ここで教授のポール・ランジュヴァンに学び、1923年に首席で卒業して技師の資格を得た。1922年にルクセンブルクの製鉄所で実習を受け、産業界の技師を志していたが、ランジュヴァンの影響で研究に熱中するようになった。1924年には砲兵学校で兵役を務め、少尉として除隊している。

1925年、ランジュヴァンの推薦でラジウム研究所に入り、マリ・キュリーの助手となった。そこで彼女の娘イレーヌと知り合い、翌1926年に結婚した。このとき二人の旧姓を組み合わせて姓を「ジョリオ=キュリー」とした。1927年に長女エレーヌ、1932年に長男ピエールが生まれ、のちに長女は物理学者、長男は生物学者になった。1930年に電気化学による放射性元素の研究で理学博士の学位を得ている。1929年ごろから夫妻は共同で研究を進め、軽い原子にアルファ線を当てたときに出る透過力の強い放射線を調べた。1932年初めに彼らが見いだした陽子のはじき出しの効果は、チャドウィックによる中性子発見への重要な一歩となった。さらに電子対生成などを調べたのち、1934年にアルミニウムにアルファ線を照射して、世界初の人工放射性同位元素であるリンの同位体の合成に成功した。この業績により、1935年に夫妻でノーベル化学賞を受賞している。

その後、コレージュ・ド・フランスに彼のため核化学の講座が設けられ、彼はフランス初のサイクロトロンの建設に力を注いだ。1937年にはイヴリー=シュル=セーヌに原子合成研究所が設けられ、彼が所長となった。1939年にハーンとシュトラスマンがウランの核分裂を示すと、彼はすぐに物理的な証拠を発表し、ハルバンとコワルスキーと組んで連鎖反応の条件を調べるチームを作った。1936年9月には、イギリス国籍の物理学者フェルデンクライスが設立したフランス柔術クラブの名誉会長となり、ほかの名誉会長には柔道の創始者である嘉納治五郎が就いていた。

第二次世界大戦ではレジスタンス運動に加わり、フランス共産党に入党し、1946年にはその抵抗への功績でレジオン・ドヌール勲章を受けた。戦後は国立科学研究センターの総裁とフランス原子力庁の長官を務め、コレージュ・ド・フランスの教授でもあった。フランス初の原子炉「ゾエ」の開発にも成功している。パグウォッシュ会議の設立に尽力し、世界科学者連盟と世界平和評議会の初代議長を務め、1950年にスターリン平和賞を受けた。日本人初の女性物理学者となる湯浅年子は、留学中に彼に師事した。1956年にイレーヌが亡くなると、彼女のパリ大学教授の職も兼ねた。1958年8月14日、白血病のため死去した。妻の死から2年後のことであった。

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