伝記
バルクークは、エジプトのマムルーク朝のスルターンである。チェルケス人の出身のマムルーク(奴隷軍人)で、1382年に即位して、バフリー・マムルーク朝に代わるブルジー・マムルーク朝を開いた。在位は1382年から1389年と、1390年から没年の1399年6月20日までである。
黒海沿岸のクリミア半島に生まれ、チェルケス人のアナスの子とされる。もとの名は、チェルケス語で羊飼いを意味するマッリー・クークで、奴隷として売りに出されたとき、アラビア語で「すもも」を意味するバルクークの名がつけられた。カイロで売られ、1362年ごろ、実権を握っていたヤルブガー・アルハーッサキーに買われた。1367年にヤルブガーが暗殺されると、そのマムルークたちは解散させられ、翌1368年にバルクークはカラクの獄に入れられて、3年を過ごした。釈放後はダマスカスの総督に仕え、のちにエジプトへ戻った。1376年に、スルターンのシャーバーン2世を追放する企てにも関わり、アイナバクに引き立てられて四十騎隊長となったが、アイナバクが専制を強めると、1377年に、討伐に従軍した将軍たちと反乱を共謀して失脚させた。1378年にアタベク(総司令官)の地位に就き、1380年には、盟友だった将軍バラカとの戦いに勝って投獄し、暗殺した。数か月後にスルターンのマンスール・アリーが病死すると、有力者たちの反対を考えて、その弟のハーッジー2世を擁立し、アタベク・摂政として実権を握った。1382年11月、会議でハーッジー2世の廃位と自らの即位が全員一致で議決され、11月26日にスルターンとなった。
即位後、はじめはバフリー・マムルークの排除を急がなかったが、政情が安定するとブルジー・マムルークを起用し、バフリー・マムルークの反乱が相次いだ。1383年には、歴史家のイブン・ハルドゥーンと会い、才能を認めて保護を約束し、1384年8月にマーリク派の大法官に任命した。ティムールの脅威に備え、1388年にはオスマン帝国のムラト1世と協力を約束した。同じ1388年、アレッポの総督ヤルブガー・アンナーセリーが反旗を翻し、討伐隊の多くが反乱軍に寝返ってダマスカスは陥落した。配下の離反が続き、バルクークは降伏を決意した。ハーッジー2世が復位し、1389年5月31日にバルクークはカイロの城砦から脱走したが、捕らえられてカラクの獄に送られた。のちにカラクの総督がバルクークを釈放し、バルクークは民衆の助けを受けて脱出した。
1390年1月2日にダマスカス近郊でミンターシュの軍を破り、ハーッジー2世らを捕らえて、その退位と自らの復位を決めた。2月1日にカイロへ凱旋して、牢にいた将軍たちを解き放った。1393年には、アレッポの総督に引き渡されたミンターシュが斬首された。バルクークはバフリー・マムルークを追放し、その領地を同郷のブルジー・マムルークに与えた。1393年にはバグダードを追われたジャライル朝の君主アフマドを迎え入れ、翌年に軍と物資を与えて送り返した。1395年には、自らティムール討伐の軍を率いてアレッポまで進んだが、ティムールが引き上げたため、カイロへ戻った。
1398年に、子のファラジュ、アブド・アルアズィーズ、イブラヒムへのスルターン位の継承を決め、後見する摂政院を設けた。1399年6月20日に食中毒で病没した。近衛マムルークの統制を試み、以前のスルターンのマムルークを追放して自分の子飼いを近衛に入れた。子飼いのマムルークからは、のちに5人がスルターンとなった。
同じ年に亡くなった人物
- イェレナ・グルバ (1399年)
- Raymond of Capua (1399年)
- オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン (1399年没)
- ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公) (1399年没)
- テムル・クトルク (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- イブン・ハジャル・アスカラーニー (1449年没)
- Ahmed Fouad Negm (2013年没)
- イブラーヒーム・パシャ (1848年没)
- イブン・マンズール (1310年代没)
- アリーファ・リファアト (1996年没)