伝記
レオ11世は、1535年6月2日にフィレンツェで生まれた。本名はアレッサンドロ・オッタヴィアーノ・デ・メディチで、父はオッタヴィアーノ、母はフランチェスカ・サルヴィアーティである。教皇レオ10世の甥孫にあたる。父は彼が子供のころに亡くなり、彼はドミニコ会の司祭ヴィンチェンツォ・エルコラーノから自宅で教育を受けた。
聖職への志を抱いたが、一人息子だったため母は反対し、思いとどまらせようとして彼をトスカーナ大公の宮廷へ送った。そこで彼はサント・ステファノ騎士団の騎士とされた。1560年にローマへ行き、のちに聖人となるフィリッポ・ネリと生涯にわたる友情と協力の関係を結んだ。教皇位に就くと予言したのはネリだったという。1566年に母が世を去ると司祭になるための学びを続け、1567年に司祭に叙階された。1569年から1584年までフィレンツェの大使として教皇ピウス5世のもとに仕え、1573年に教皇グレゴリウス13世からピストイア司教に任じられ、1574年にフィレンツェ大司教となった。1583年に枢機卿に叙され、1584年1月9日に教皇シクストゥス5世からサンティ・チリアコ・エ・ジュリッタの司祭枢機卿とされた。1596年に教皇クレメンス8世からフランス駐在の教皇特使として遣わされ、王妃マリア・デ・メディチのいるフランスに1598年まで留まり、その後、司教・修道者聖省の長官に任じられた。
1605年、クレメンス8世の死から11日後に62人の枢機卿がコンクラーヴェに入った。有力な候補には、歴史家チェーザレ・バロニオや、イエズス会の論客で後に聖人となるロベルト・ベラルミーノがいた。しかし、イタリア派の枢機卿の指導者ピエトロ・アルドブランディーニがフランス人枢機卿と結び、スペイン王フェリペ3世の明らかな意向に反して、アレッサンドロの選出をもたらしたという。フランス王アンリ4世が、その擁立に30万エスクードを費やしたとも言われる。彼はトスカーナ大公家のメディチ家とは遠縁にあたり、アンリ4世の妻マリアもメディチ家の出であった。彼が教皇に選ばれた背景には、トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチの影響力も大きかった。大叔父のレオ10世にちなんで、レオ11世を名乗った。
戴冠式は首席助祭のフランチェスコ・スフォルツァ枢機卿が執り行い、ラテラノ大聖堂の就任式にも臨んだが、その式の疲れと寒さで、翌日から熱を出した。1605年4月27日、選出から1か月足らずで世を去った。在位は歴代でも最短の部類であり、「稲妻教皇」と呼ばれた。トスカーナ大公は死後も力を発揮し、次の教皇にはスペイン派のパウルス5世を選出させた。
同じ年に亡くなった人物
- マリーノ・グリマーニ (1605年没)
- アクバル (1605年没)
- ポンチュス・ド・チヤール (1605年)
- ハンダン・スルタン (1605年没)
- フョードル2世 (1605年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ1世 (モンパンシエ伯) (1486年没)
- ケレスティヌス3世 (ローマ教皇) (1198年没)
- ガイウス・コルネリウス・ガッルス (紀元前25)
- ヴァレリウス・コルドゥス (1544年没)
- ランベルト・マジョラーニ (1983年没)