伝記
フィールーズ・シャー・トゥグルクは、1351年から1388年まで在位したトゥグルク朝の第3代スルターンである。1309年に生まれ、父はシパフサーラール(軍司令官)のマリク・ラジャブ、母はパンジャーブ地方のアボハルの出身の王女であった。父は王朝の創始者ギヤースッディーン・トゥグルクの弟にあたる。母の結婚には次のような話が伝わる。ギヤースッディーンは弟ラジャブにディーパルプルの首長の娘を娶らせようとしたが、首長に断られて1年分の収入の納付を求め、人々を3日間苦しめた。ラナ・マル・バッティの娘ビービー・ナイーラは、母が嘆き悲しむのを見て、自ら求婚を受け入れ、結婚して名をスルターン・ビービー・カドバヌーと改めたという。フィールーズが7歳のとき、父ラジャブが死に、以後はギヤースッディーンのもとで育てられた。名に付く「トゥグルク」は、後世に便宜上加えられたもので、同時代の記録ではフィールーズ・シャーとだけ呼ばれたと伝えられる。
ギヤースッディーンは、フィールーズとのちのスルターンとなるムハンマド・ビン・トゥグルクに、国政の扱い方と王族の務めを教えた。フィールーズが14歳のときにギヤースッディーンがデリーの王位に就くと、フィールーズはスルターンに従って政務を学んだ。ムハンマドが即位したとき、16歳ほどだったフィールーズは、侍従長代理の官職と、1万2千の騎兵を率いるナーイブ・バルバクの称号を得た。
1351年3月23日、ムハンマドが崩御すると、フィールーズはインダス川のほとりで王位に就いた。モンゴル人の一団が輜重隊を略奪してフィールーズの陣営に迫ったが、戦いに勝って捕虜を解放し、これがスルターンとしての最初の勝利となった。このとき、帝国の高官ホージャ・ジャハーンは、誤った情報から、フィールーズが行方不明で死んだと思い込み、ムハンマドの息子を名のるマフムードを王位に就けたが、フィールーズが生きていると知って、デリーで2万の軍を集めた。フィールーズは貴族たちとともに、ムハンマドに娘が1人しかいないことを確かめ、ムルターン、ディーパルプル、アジョーダンを通って大軍を集めながらデリーへ進んだ。その中には36人の地方の首長も加わっていた。進軍中に息子が生まれ、ファテフ・ハーンと名づけ、その地にファテハーバードの町を築いた。ホージャ・ジャハーンはこの町へ赴いて過ちを詫び、フィールーズの支配は確かなものとなった。ギヤースッディーンの娘フダーワンド・ザーダは、夫とともに、フィールーズが訪れたとき殺そうと図ったが、フィールーズは合図に気づいて宮殿を出た。のちに彼女に引退を命じ、夫を追放した。
1353年、フィールーズはシャムスッディーン・イリヤース・シャーの治めるベンガルへ7万の兵で遠征した。ベンガルへの遠征はその後もたびたび行われたが失敗し、失地の回復はできなかった。内政を重視したフィールーズは、先代ムハンマドの遠征で膨らんだ軍費のために悪化した財政の再建に取り組み、行政改革に力を注いだ。貴族の反乱を抑えるため官職や領地、特権の世襲を認め、失業者には職業の補導を行い、結婚資金の制度も作った。多くの新しい都市や灌漑施設を築き、フィーローズプル、ヒッサール、ファテハーバードを造ったことで大建設者とみなされた。罪人に対する残酷な処罰も廃止した。ヒンドゥー教徒には一定の理解を示す一方で、イスラーム教への改宗を勧めた。
1388年9月20日、フィールーズは80歳で崩御し、跡を曾孫のギヤースッディーン・トゥグルク2世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ニッコロ2世・デステ (1388年没)
- アルブレヒト4世 (メクレンブルク公) (1388年没)
- トグス・テムル (1388年没)
- カール・トピア (1388年没)
- ヴェンツェル (ザクセン選帝侯) (1388年没)
同じ地域に関係する人物
- アーサフ・ウッダウラ (1797年没)
- ハルシャ・ヴァルダナ (647年没)
- ラーム・V・スタール (2025年没)
- ビスミッラー・カーン (2006年没)
- カビール (1518年没)