伝記
ニッコロ2世・デステは、フェラーラ侯、モデナ・レッジョ侯(在位1361年〜1388年)を務めた人物である。「ゾッポ(足の悪い人の意)」とも呼ばれた。1338年5月17日にフェラーラで、フェラーラ領主オビッツォ3世と、ジャコモ・アリオスト(アリオスティ)の娘リッパのあいだに、正妻の子ではない子として生まれた。
1352年に父が亡くなり、兄のアルドブランディーノ3世が跡を継ぐと、ニッコロは兄を補佐した。1361年に兄が亡くなると、ニッコロがデステ家の主となった。神聖ローマ帝国と教皇の双方から承認を受け、まず、フェラーラをミラノに結びつけていた同盟を断ち切った。1362年にはパドヴァの支持を得た。同じ年に妹コスタンツァをリミニの領主ウンガロ・マラテスタに嫁がせた。のちにヴェローナの支配者マスティーノ2世の娘で、同じくヴェローナを支配したカンシニョーリオの妹にあたるヴェルデ・デッラ・スカーラと結婚した。枢機卿アルボルノスから、ノナントラ、バッツァーノ、ポンツァーノの土地を得て、モデナの領地に加えた。
ミラノのヴィスコンティ家と、最初の反ヴィスコンティ同盟とが対立し、2年の戦いのすえに条約が結ばれたが、ニッコロはこれを不十分と見て、アヴィニョンへ赴き、教皇ウルバヌス5世にイタリアへの介入を求めた。パドヴァ、ヴェローナ、マントヴァと同盟し、ヴィテルボでの会談を経て、1367年には教皇の支援も得て、ローマで新たな反ヴィスコンティ同盟が結ばれた。デステ家は、停戦をはさみながら続いた戦いの最前線に立った。フィレンツェと教皇の対立が起こると、ニッコロはこれを利用し、1376年にラヴェンナの大司教からルーゴの町とサン・ポティートの別荘を譲られ、ある傭兵隊長の手にあったバニャカヴァッロとコティニョーラ、さらにファエンツァも買い取った。1378年にジェノヴァとヴェネツィアが争うと、ひそかにヴェネツィアを助け、見返りにヴェネツィアの邸宅を贈られた。1385年の初めには、ボローニャを救援する遠征に乗じて、コンセリーチェの砦、ついでザゴナーラの砦を奪った。
ニッコロは、詩人ペトラルカの友人でもある教養ある君主だった。気性が激しく、女性関係の評判もあり、庶子の数は数えきれないほどだったという。1385年には、長年の戦争と疫病の連続、自然災害、民衆に耐えがたい重税の政策が重なり、激しい民衆の蜂起に直面した。民衆は官房を襲って荒らし、重税の責任者と見なされた賢人会議の判事トンマーゾ・ダ・トルトーナの首を要求した。ニッコロは、反乱の大きさを悟って判事を引き渡し、最も憎まれた施策をやめて、税の仕組みを改めることにした。一方で、騒ぎを起こした者は容赦なく罰し、今後の暴動から身を守ることを決めた。マントヴァの領主たちから2万5千ドゥカーティを借り、建築家ベルトリーノ・ダ・ノヴァーラに、大聖堂の近くに、外敵ではなく民衆に向けた城塞、サン・ミケーレ城の設計を命じた。城壁の上に築かれたこの城は、外からの攻撃や反乱のときの、一族の避難所となるものだった。
ニッコロの治世のあいだに、フェラーラは芸術の都市としての評判を得た。街路が舗装され、記念建築がつくられ、町は美しく近代的になり、防備も固められた。ニッコロは1388年3月26日にフェラーラで亡くなった。子は、1371年生まれのリナルドと、1365年生まれのタデアが残った。タデアはパドヴァの領主フランチェスコ2世・ダ・カッラーラに嫁いだ。跡は弟のアルベルト5世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト4世 (メクレンブルク公) (1388年没)
- ララ・シャヒーン・パシャ (1388年)
- トグス・テムル (1388年没)
- フィールーズ・シャー・トゥグルク (1388年没)
- 崔瑩 (1388年没)
同じ地域に関係する人物
- エルコレ1世・デステ (1505年没)
- エリザベッタ・ゴンザーガ (1522年没)
- ジローラモ・ダ・カルピ (1556年没)
- エルコレ2世・デステ (1559年没)
- アルフォンソ2世・デステ (1597年没)