伝記
ペドロ4世は、1319年9月5日にバラゲーで生まれたアラゴン王で、バレンシア王、バルセロナ伯でもある。カタルーニャ語ではペラ4世と呼ばれ、バルセロナ伯としては3世にあたる。「尊儀王」、または「短剣王」の呼び名がある。父はアルフォンソ4世(慈悲王)、母はその最初の妃テレサ・デ・エンテンサで、ペドロは長男だった。のちにマヨルカ王を廃し、バレアレス諸島とルシヨンをアラゴン王国に取り戻した。自ら年代記を書いたことでも知られる。
父アルフォンソは次男で、もともと王位につく見込みはなく、ウルヘル伯領やアラゴンのエンテンサなどの男爵領を持つ富裕な相続人テレサと結婚していた。ところが兄のハイメが王位継承を放棄したため、アルフォンソが跡継ぎとなった。ペドロは、まだ5歳ほどで、叔父のプラデス伯ペドロの反対があったものの、サラゴサの議会で後継者に宣言された。まもなく祖父が死んで、父がアルフォンソ4世として即位した。ペドロはアラゴン人のなかで教育を受け、王太子としてサラゴサに住み、アラゴンの総代理官と王の代理の職を務めた。父が再婚したカスティーリャのレオノールには二人の息子フェルナンドとフアンが生まれ、王妃は二人に広い領地を与えさせた。王領の分割を心配した貴族の一部は王太子ペドロのまわりに集まった。王は、ペドロの秘書官ロペ・デ・コンクードを処刑し、継母に反対する王太子の支持者を宮廷から追い出した。王太子はナバラ王家との縁談の交渉も始めた。父の病気のため、ペドロは王の代理として政務をとりはじめた。
1336年に父が死ぬと、ペドロは王になったが、政治的には不安定な立場にあった。継母は、自分の子らの要求を支持してもらうかわりに国境の城を渡そうと、兄のカスティーリャ王アルフォンソ11世と交渉を始めていた。ペドロは父の病中に代理を務めていたころ、その城々に忠実な兵を置いて備えた。1338年に、ナバラ女王フアナ2世の娘マリアと結婚し、1男3女をもうけた。1344年からはマヨルカ王の称号も帯びている。マリアは1347年に亡くなり、同じ年にペドロはポルトガル王アフォンソ4世の娘レオノールと結婚したが、翌年、彼女はペストで死に、子はなかった。1349年には、シチリア王ピエトロ2世の娘レオノールと3度目の結婚をし、のちにアラゴン王となるフアン1世とマルティン1世など、2男1女が生まれた。
1356年から、ペドロ4世はカスティーリャ王ペドロ1世(残酷王)と「二人のペドロの戦争」を戦った。ペストなどの災害もあって勝者のないまま、1375年のアルマサン条約で終わった。1358年から1359年の会議では、自治政府が設立された。治世のあいだ、異端審問所長のニコラス・アイメリッチとしばしば対立した。1377年には最後の王妃シビラ・デ・フォルティアと結婚し、1男1女をもうけた。
1377年にはネオパトリア公、1380年にはアテネ公、1386年にはアンプリアス伯の称号も加わった。ペドロ4世は1387年1月6日にバルセロナで死去し、王位は長男のフアン1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アブラアム・クレスケス (1387年没)
- サヤナ (1387年没)
- オーロフ2世 (デンマーク王) (1387年没)
- ビアンカ・ディ・サヴォイア (1387年)
- Joanna, Duchess of Durazzo (1387年)
同じ地域に関係する人物
- エンリック・ミラージェス (2000年没)
- ミロー1世 (966年没)
- ルイ・フランソワ2世 (コンティ公) (1814年没)
- アナ・マリア・マトゥテ (2014年没)
- ラディスラオ・クバラ (2002年没)