伝記
アシュラフ・シャーバーンは、エジプトを支配したバフリー・マムルーク朝の第26代スルタンで、1363年から1377年まで在位した人物である。1353年か54年に生まれ、スルタンだったナースィル・ムハンマドの孫にあたる。父のアムジャド・フサインは、ナースィル・ムハンマドの子でありながら、多くの兄弟と違ってスルタンにならなかった。母のハワンド・バラカは、もと奴隷の身分の女性で、フサインと結婚した。
1363年5月の末、有力なアミールたちは、ヤルバガ・アルウマリーを中心に、不品行を理由として、スルタンのマンスール・ムハンマドを廃位し、当時10歳のシャーバーンを後任に立てた。ヤルバガたちは、シャーバーンを扱いやすい飾りものとみなし、ヤルバガは摂政として実権を握るべく動いた。1366年12月には、地位の高い何人かのアミールとヤルバガ自身のマムルークたちが、ヤルバガに対して反乱を起こした。ヤルバガのマムルークの多くは、はじめは主人に忠実であったが、自ら統治することを望んでいたシャーバーンが反乱側に支持を与えると、彼らも反乱に加わった。ヤルバガは捕らえられ、マムルークたちに殺された。シャーバーンは、そのマムルークの何人かをアミールに取り立てたが。この時期のシャーバーンの手元には、自前のマムルークが200人ほどしかいなかった。
1367年の末、アサンダミルは、新たに従えたマムルークとともに、シャーバーンに反乱を起こしたが、敗れた。この反乱には、かつての摂政クースーンの子ハリールも加わった。シャーバーンに味方した「庶民」が反乱側のマムルークを多く倒し、シャーバーンはその忠義と支えに報いるため、治世のあいだ庶民を厚く遇したという。1373年には、ヤルバガの配下の生き残りで、のちにスルタンとなるバルクークらが、亡命先からカイロへの帰還を許され、シャーバーンのマムルークを訓練した。同じ年の6月か7月に、シャーバーンとアミールのウルジャイ・アルユースフィーとの争いが起こった。庶民はふたたびシャーバーンの側で武器を取り、十一回ほどの戦いののち、アイナバクの仲介でウルジャイ側のアミールたちが寝返り、ウルジャイはその年のうちに殺された。1374年に、エジプトで2年間続く飢饉が起こった。シャーバーンは、貧しい人々に食糧を行きわたらせるため、費用をアミールとカイロの裕福な商人に分担させた。
1376年、シャーバーンはメッカ巡礼に出た。留守中の反乱を防ぐため、主な官僚や軍人を全員同行させたが、アカバで、飼い葉と現金の支給をめぐって、バルクークやタシュタムルらかつてのヤルバガの配下と口論になった。カイロでも、残った少数のアミールが、アイナバクを指導者として、シャーバーンの子マンスール・アリーを擁して反乱を起こしていた。シャーバーンは、逃れようとしたが、アカバで反乱側に捕らえられた。アイナバクから昇進を約束されたアミールのジャルカス・アッサイフィーが、1377年にシャーバーンを絞め殺したとされ、その日付は3月15日という。
シャーバーンは、母のために建てたマドラサの霊廟のひとつに葬られた。自分の霊廟の建物群は完成させないままだった。その後、アカバの反乱軍とカイロの反乱軍は無関係に反乱を起こしていたために内戦となり、アイナバクとタシュタムルの双方を倒したバルクークが、のちにスルタンの地位を奪った。
同じ年に亡くなった人物
- オロス (1377年没)
- リヒャルディス・フォン・シュヴェリーン (スウェーデン王妃) (1377年没)
- アルギルダス (1377年没)
- エドワード3世 (イングランド王) (1377年没)
- ヴラディスラフ1世 (1377年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤクーブ・ブン・キッリス (991年没)
- ムスタアリー (1101年没)
- ガマール・アブドゥル=ナーセル (1970年没)
- ハサン・アル=バンナー (1949年没)
- ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス (紀元前48年没)