伝記
オロスは、ジョチ・ウルスの左翼を治めたハンで、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫である。ウルン・テムルの系統に属し、のちのカザフ・ハン国のハンたちの祖先にあたる。生年は分かっていない。ジョチ・ウルスは、14世紀の半ばにバトゥ家、オルダ家が相次いで断絶し、宗主の位をめぐって後継者の争いが続いていた。オロスは1350年代に、ヴォルガ川流域から南東の、かつてオルダ家のウルスだった地域へ移った。そこはスグナクから、キヤト部の総督ジル・クトルクが、ハンに代わって治めていた。オロスは、少数の仲間といたとき、小競り合いのなかでこの総督を殺した。総督の座は子のティンギズ・ブカが継ぎ、反対派を容赦なく抑えた。ティンギズ・ブカは1359年か1360年に、自分が立てたカラ・ノガイに裏切られて殺された。カラ・ノガイは位に就いたが1363年に亡くなり、甥、いとこ、兄弟と短い治世が続いた。オロスは、ティンギズ・ブカの怒りをどうにか逃れ、こうした遠縁たちの治世を生き延びた。
1368年、オロスはスグナクでハンの位に就き、ジョチ・ウルスの統合と左右両翼の再編を目指した。ハンの位は、ジョチ・ウルスの左翼を率いていたクトルク・ホージャから奪ったものとされる。立場を固めるため、敵とみなした王族や有力者を取り除き、そのなかには、のちにハンとなるトクタミシュの父で、同族のトイ・ホージャもいた。このためトクタミシュは、オロスとその息子たちを深く恨むことになった。オロスは、ヴォルガ川下流の古い都サライを手に入れようとした。1373年にママイの擁立したムハンマド・スルタンを追い出して、一時はこの都を押さえたが、すぐに地元の支配者に奪われた。1374年にママイがムハンマド・スルタンをサライに戻すと、オロスは再び攻めて成功したが、1375年にはカガン・ベクに奪われ、長くは保てなかった。
そのあいだに、年少を理由にオロスに命を助けられていたトクタミシュは、脱走と帰順を繰り返したのちにティムールのもとへ亡命し、支援を受けてオトラルとサイラムに拠点を築いた。1376年に、ティムールの支援を受けたトクタミシュが何度も攻め入った。最初は、東方を預かっていた子のクトゥルク・ブカがトクタミシュを追い払ったが、この戦いで致命傷を負った。次の戦いでは長男のトクタキヤの軍がトクタミシュに矢で傷を負わせ、トクタミシュはシルダリヤ川を泳いで逃れた。オロスはティムールに使者を送ってトクタミシュの引き渡しを求めたが、ティムールは応じなかった。三度目にはティムールが自ら軍を率いて攻めてきた。オロスはオトラルに部隊を送り、自身はスグナクを固めて持久戦に持ち込んだ。小さな戦いではオロスの部隊がティムールの指揮官たちを何度か破り、人も馬も食糧も大きく失ったティムールは、冬のうちにサマルカンドとケシュへ引き上げた。
翌1377年春、ティムールが再び攻めてきたので、オロスはウストユルト台地で迎え撃った。しかし対陣のさなかに亡くなった。死因は、自然死とも、傷がもとで戦死したともいわれる。ティムールは、オロスが亡くなったと知ると、トクタミシュをジョチ・ウルスのハンと宣言して引き上げた。オロスの跡は子のトクタキヤが継いだが、2か月で亡くなり、次の子テムル・マリクも1379年にトクタミシュに敗れて殺された。オロスの在位は9年であった。
祖父のエルゼンにならい、スグナクに多くの建築物を寄進した。ヒジュラ暦776年(1374〜1375年)と779年(1377〜1378年)にサライで鋳造した貨幣が残る。子女は、男子7人、女子5人と記録される。
同じ年に亡くなった人物
- ギヨーム・ド・マショー (1377年没)
- アシュラフ・シャーバーン (1377年没)
- ヴラディスラフ1世 (1377年没)
- エドワード3世 (イングランド王) (1377年没)
- ブッカ1世 (1377年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。