伝記
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスは、共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前97年より少し前に生まれたとされ、紀元前48年に没した。コルネリウス氏のレントゥルス家に属し、紀元前58年の執政官プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルの兄弟、紀元前32年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスケッルスの父にあたるとされる。若いころの詳細は知られていない。
紀元前72年にカエサルの盟友となるルキウス・コルネリウス・バルブスがポンペイウスへの功でローマ市民権を得た際、その後見をしたのがクルスだった可能性が指摘される。クルスはその当時、ポンペイウスの副官としてヒスパニアにいたのかもしれないという。紀元前61年には、ボナ・デア祭の秘儀を冒したプブリウス・クロディウス・プルケルの告発者の筆頭となり、ほかの2人のレントゥルスとともに訴えたが、陪審員への買収もあって有罪にできなかった。紀元前58年には法務官となり、護民官クロディウスが執政官時代の行為を理由にキケロを攻撃すると、キケロはクルスの助けを期待した。クルスも他の有力者とともにポンペイウスに働きかけたが、元老院の支持なしに護民官に逆らうことをポンペイウスが拒んだため、実らなかった。
その後もクルスは、一貫してカエサルのもっとも強硬な政敵の1人であり続けた。紀元前51年には神官団の一員に立候補して敗れたが、翌年に紀元前49年の執政官に選ばれ、同僚はガイウス・クラウディウス・マルケッルスであった。ガリアに留まり軍を保持したまま執政官選挙に立候補したいというカエサルの要望をめぐり、元老院派の一部とカエサル派のあいだで交渉があったものの、クルスは「盗賊に対して必要なのは武器であり、投票ではない」と叫び、カエサルのあらゆる要求をはねつけた。カトやアヘノバルブスらとともに元老院の流れを方向づけ、紀元前49年1月7日には、執政官のクルスとマルケッルスの主導で、カエサルに軍を解いて帰還するよう求める元老院最終決議が可決された。数日後、カエサルはルビコン川を渡り、内戦が始まった。
内戦が始まると、クルスは一度ローマに残ったが、カエサルが迫るにつれ多くの元老院議員とともに去った。カプアでカエサルが設けた剣闘士養成所の剣闘士を解放して元老院派の軍に加え、ポンペイウスのために兵を集めた。カエサルは腹心のバルブスを送ってクルスを味方に引き込もうとしたとされる。やがてアシア属州に赴き、2個軍団を徴募して、ギリシアのポンペイウスの本軍に合流した。同年7月の布告で、小アジアのユダヤ人を兵役から免除したことも知られる。
紀元前48年8月のファルサルスの戦いに加わったが、元老院派は敗れ、クルスはキプロス、ロドス島を経て、ポンペイウスと同じくエジプトへ逃れた。アンティオキアでは避難を断られたとされる。9月4日にエジプト王プトレマイオス13世の命で捕らえられ、殺害された。最期については、カエサルの『内乱記』ではポンペイウスと同じ舟で捕虜となり翌日に殺されたとあり、プルタルコスの『対比列伝』ではポンペイウスとは別の舟で上陸し、その死を確かめたのち捕らえられ殺されたとある。カエサル自身は、紀元前50年末から49年初めの事態の責任の多くをクルスに負わせ、その多額の負債や、軍と豊かな属州を握る望みを指摘し、第二のスラになろうとしていたと述べた。キケロはクルスを、困難を考えることを嫌う人物と評したという。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官) (紀元前48年没)
- Alexander of Judaea (紀元前48)
- 宣帝 (漢) (紀元前48年没)
- マルクス・カルプルニウス・ビブルス (紀元前48年没)
- グナエウス・ポンペイウス (紀元前48年没)
同じ地域に関係する人物
- スレイマン・パシャ・アル・フランサーウィー (1860年没)
- ハーフィズ (ファーティマ朝カリフ) (1149年没)
- アブド・エル・クリム (1962年没)
- オマル・シャリーフ (2015年没)
- al-Mansur Muhammad (1398年没)