伝記
マグヌス4世は、1316年4月か5月にノルウェーで生まれ、1374年12月1日に没した王で、マグヌス・エリクソンの名でも知られる。スウェーデン王としては1319年から1364年まで、ノルウェー王マグヌス7世としては1319年から1355年まで在位した。父はスウェーデン王マグヌス3世の次男エリク・マグヌソン、母はノルウェー王ホーコン5世の娘インゲビョルグである。父エリクは1318年に、兄のビルイェル王に殺されていた。
1319年、ホーコン5世が男子の後継者なく没すると、外孫にあたる3歳のマグヌスがノルウェー王として迎えられ、母が摂政となった。同じ年の7月、スウェーデンでは伯父のビルイェルが貴族らに追われて、マグヌスがモーラの集会で王に選ばれた。母は1322年から1323年にかけて摂政を退けられ、マグヌスが成人するまで両国は地方の有力者が治めた。1323年には、ノヴゴロドとの間でノーテボリの和約を結んだ。1331年、マグヌスは15歳で成人を宣言して親政を始めたが、ノルウェーでは成人を20歳とする1302年の法があったため抵抗が起こり、貴族エルリング・ヴィドクンソンらが蜂起した。反乱者は1333年に服従した。
1332年には、デンマーク領だったスコーネとブレーキンゲを、ホルシュタイン公ヨハンから銀3万4千マルクで買い取った。デンマーク王が所有を認めなかったため、マグヌスは教皇に確認を求めたが、はっきりした返答は得られなかった。1335年には、ヴェステルイェートランドとヴェーレンドで、キリスト教徒の親から生まれた者を奴隷とすることを禁じた。同じ年に、ナミュール侯ジャン1世の娘ブランカと結婚し、エリクとホーコンの二人の息子が生まれた。1336年にストックホルムでノルウェーとスウェーデンの王として戴冠したが、ノルウェーの貴族は別々の戴冠を望んでおり、1338年に再び蜂起した。1343年にはデンマークとの戦争の和平がヴァールベリで結ばれ、デンマーク王はスコーネなどへの権利を放棄した。同じ年のノルウェー貴族との合意で、次男ホーコンがノルウェー王となり、長男エリクがスウェーデン王位を継ぐことが定められた。1346年には、王夫妻が聖ビルギッタにヴァドステーナ修道院を与え、彼女はそこを本拠としてビルギッタ会を設立した。
1350年には地方法と都市法を制定し、これらは18世紀初頭まで維持された。1350年ごろに黒死病で人口の約3分の1を失うまで、スウェーデンは平和な時代であったという。しかし、領地や租税徴収権がすでに質入れされており、黒死病で農民も減ったため、王の得られる税収は少なかった。スコーネ購入の費用のため、農民への臨時税や関税の強化、貴族の免税特権の撤回、教会への課税などを行い、若い騎士ベンクト・アルゴットソンを寵愛してフィンランド公に叙した。1355年にホーコンが成人してノルウェー王となり、二つの国の同君連合は解消された。1356年に貴族らが反乱を起こし、翌年には長男エリクをスウェーデン王に立てたが、エリクは1359年に没した。聖ビルギッタも、のちにマグヌスの中央集権政策を批判するようになった。1364年、マグヌスは貴族らに追放されてノルウェーへ逃れ、貴族の要請で甥のメクレンブルク公アルブレヒト3世がスウェーデン王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Andrew Corsini (1374年)
- 恭愍王 (1374年没)
- ボギスラフ5世 (ポメラニア公) (1374年没)
- エレナ・ブガルスカ (1374年没)
- 倪瓚 (1374年没)
同じ地域に関係する人物
- ハーラル4世 (ノルウェー王) (1136年没)
- シグル2世 (ノルウェー王) (1155年没)
- エドヴァルド・グリーグ (1907年没)
- Wollert Konow (1924年没)
- アルマウェル・ハンセン (1912年没)