伝記
ヨハンは、1293年ごろに生まれたクレーフェ伯である。クレーフェ伯ディートリヒと2人目の妻マルガレーテ・フォン・ハプスブルクとのあいだの末の息子で、1347年から1368年までクレーフェ伯の位にあり、クレーフェ伯家の最後の伯となった。
末の息子だったヨハンには、父からクレーフェ伯領を継ぐ見込みがなかった。そのため1310年に聖職者の道を歩み始め、ケルン、マインツ、トリーア、ユトレヒト、クサンテンの参事会員になった。1320年から、あるいは1324年から、ケルン大聖堂の首席司祭を務めた。同じ時期に、父の跡を継いでいた兄のオットーが子を残さずに亡くなり、継承順が2番目だった兄のディートリヒが伯位を継いだ。1333年ごろ、ディートリヒとヨハンのあいだで継承をめぐる争いが起こった。ディートリヒは2度結婚しながら、3人の娘しかなく、男子がいなかったからである。ディートリヒは最後には弟のヨハンを後継者として受け入れた。
1347年7月7日にディートリヒが亡くなると、ヨハンはただちに聖職者の道を捨て、伯位を継いだ。それまでの彼は、リン、オルソイ、ヒュルヒラート伯領の残りの部分を所領として与えられていた。伯位を継いだとき、クレーフェ伯領はライン川の左岸を中心に、まとまった領域をなしていた。1348年に、ゲルデルン公ライナルト2世の娘マティルデ(メヒテルト)と結婚した。そして、ゲルデルン公領で2人の義兄弟ライナルト3世とエドゥアルトとのあいだに起こった継承戦争に巻き込まれた。ヨハンはライナルトの側に立ち、その褒賞としてエンメリヒの町を得て、領地を広げた。しかしライナルトはティールで敗れ、ナイエンベーク城に幽閉された。
ヨハンは1368年11月19日に亡くなった。その治世のあいだ、クレーフェ伯領は広がり、近代化も進んだ。マティルデとのあいだに子はなく、跡を継いだのは甥のマルク伯アドルフ3世であった。こうしてクレーフェ伯領はクレーフェ家の手を離れ、マルク家のものとなり、2つの伯領が統合された。妻のマティルデは1384年に亡くなっている。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・バットゥータ (1368年没)
- ブランシュ・オブ・ランカスター (1368年没)
- オルカーニャ (1368年没)
- マルコ・コルネール (1368年)
- ボルコ2世マウィ (1368年没)
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