伝記
ボルコ2世マウィは、1312年ごろに生まれ、1368年7月28日に没した、シロンスク・ピャスト家最後の独立諸公の一人である。シフィドニツァ公として1326年から1368年まで在位し、のちにヤヴォル=ルヴヴェク公、ルサティア公なども兼ねた。シフィドニツァ公ベルナルトの長男で、母はポーランド王ヴワディスワフ1世の娘クネグンダである。「マウィ」は「小さい」を意味する異称である。
1326年に父が死ぬと遺領を継ぎ、弟ヘンリク2世を共同統治者とした。兄弟はまだ10代で、母クネグンダと、父方の叔父であるヤヴォル公ヘンリク1世、ジェンビツェ公ボルコ2世が後見人となった。ザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世と再婚していた母が1331年に亡くなると、ボルコ2世は親政を開始した。そこで直面したのが、小さな公国の独立を保つという問題であった。当時、シロンスクの諸公国を支配下に収めようとしていたのが、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクである。1329年、ヨハンはシフィドニツァ公に宗主権を認めさせようと最初の試みを行った。ほぼ全てのシロンスク諸公がすでにヨハンの封臣となるなか、ボヘミアに屈することを拒んだのは、ボルコ2世と、妹コンスタンツィアの夫であるグウォグフ公プシェムコ2世の二人だけであった。ボルコ2世はハンガリー王カーロイ1世の宮廷を訪れて独立の保証を得たほか、同じ1329年には神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世を訪ねた。
1331年、ヨハンはドイツ騎士団と同盟してシロンスクへ遠征したが、進軍は容易ではなく、ボヘミアが併合できたのはグウォグフ公国だけだった。1336年には叔父のジェンビツェ公がボヘミア王に臣従し、ボルコ2世は孤立したが、ポーランド、ハンガリーとの反ボヘミア同盟を作る策動を続けた。1338年6月1日、ハプスブルク家のオーストリア公レオポルト1世の娘アグネスと結婚して地位を高めた。1345年1月1日、ルートヴィヒ4世、ポーランド王カジミェシュ3世、ハンガリー王ラヨシュ1世の公式の同盟が成立した。ヨハンの報復でボルコ2世の領国は侵略されたが、シフィドニツァを包囲していたボヘミア軍が分散した隙に、これを撃退した。この年に失ったカミェンナ・グラの要塞は、1348年に商人に変装させた兵を送り込んで取り戻した。1346年に叔父のヤヴォル公ヘンリク1世が死ぬと、ヤヴォル=ルヴヴェク公国を相続している。1348年11月22日のナムィスウフの和約で戦争は引き分けに終わったが、ボルコ2世は交渉権を認められなかった。
1350年8月16日、オーストリア公アルブレヒト2世の調停で、カール4世との関係は正常化した。弟ヘンリク2世は一人娘アンナを残して先に死んでおり、ボルコ2世はこの姪の後見人となって、いずれ自分の公国を継がせようと考えた。同年12月にカール4世の長男ヴェンツェルとの婚約が成立したが、15日後にヴェンツェルが急死して白紙に戻った。1353年にカール4世の妃が亡くなると、皇帝は姪アンナとの再婚を打診し、結婚式は同年5月27日にブダで行われた。以後、カール4世との協調のもと、ボルコ2世は財政難のシロンスク諸公から領土を買い取り、1358年にブジェクの半分とオワヴァ、翌年にシェヴィエシュを手にした。1364年にはルサティアの大都市と周辺の領地を銀2万1000グジヴナで皇帝から買い、同年のクラクフ会議に主賓の君主の一人として招かれた。56歳で亡くなり、グリュッサウ修道院に葬られた。公国は妻アグネスが1392年まで管理し、のちにボヘミア王国に併合された。
同じ年に亡くなった人物
- ブランシュ・オブ・ランカスター (1368年没)
- Balsa I (1368年)
- ギー・ド・ショーリアック (1368年没)
- 後村上天皇 (1368年没)
- イブン・バットゥータ (1368年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘートヴィヒ・エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1722年没)
- フリードリヒ・ツー・シャウムブルク=リッペ (1945年没)
- アロイス・アルツハイマー (1915年没)
- ヘンリク2世 (1241年没)
- タデウシュ・ロゼヴィチ (2014年没)