伝記
ヨハン2世は、ホーエンツォレルン家の出身で、ニュルンベルク城伯を務めた人物である。1309年ごろ、または1320年以前に生まれたとされ、「獲得伯」あるいは「征服伯」と呼ばれた。父は城伯フリードリヒ4世、母はマルガレーテである。
1332年に父の跡を継ぎ、皇帝ルートヴィヒ4世に忠実に仕え続けたという。1333年3月3日より前には、ヘンネベルク伯ベルトルト7世の娘エリーザベトと結婚していた。1340年、それまでの領主であったオーラミュンデ伯家が断絶し、相続契約が効力を持ったため、クルムバッハ伯領とそのプラッセンブルク城がヨハンのものになった。ホーエンツォレルン家のフランケン地方での所領を広げたことが、「獲得伯」というあだ名の由来とされる。この相続からは、オーラミュンデ伯家最後の女伯の「白い貴婦人」の伝説が生まれ、その幽霊はホーエンツォレルン家の各所の館に現れて不吉の前兆になるという。
1345年には、短いあいだではあるが、ブランデンブルク辺境伯領の庇護者として、筆頭の統治者になっている。1348年にブランデンブルクの統治を任されたともいう。ヨハンの治世には、ペスト(黒死病)がニュルンベルクを襲い、多くの犠牲者を出した。ユダヤ系の住民が病気を広めたと見なされ、多くのユダヤ人が殺されたが、城伯はこれを止めようとしなかった。
1357年にヨハンが亡くなると、息子のフリードリヒ5世と、ヨハンの弟アルブレヒトが跡を継いだ。アルブレヒトは1357年から1361年まで、共同の城伯だった。エリーザベトとのあいだには5人の子が生まれた。フリードリヒ5世(1333年ごろ〜1398年)は城伯となった。娘マルガレーテは1359年にランツフートでバイエルン公シュテファン2世と結婚し、1377年に亡くなった。娘のエリーザベトは1360年に、シャウムベルク伯に嫁いだ。アンナはビルケンフェルトとヒンメルクローンの女子修道院長となり、1383年に亡くなった。アーデルハイトは1361年から1370年までビルケンフェルトの修道女だった。
ベルリンのジーゲスアレー(勝利の並木道)には、ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ1世を中心にした記念碑群があり、そのなかに、エルンスト・ヘルター作のヨハン2世の胸像が置かれていた。除幕は1899年11月7日である。
同じ年に亡くなった人物
- バルトールス・デ・サクソフェラート (1357年没)
- Charles I of Monaco (1357年)
- インゲビョルグ・エリクスドッティル (1357年没)
- ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ (1357年没)
- ジャーニー・ベク (1357年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。