伝記
ジャーニー・ベク(ジャニベク・ハン)は、ジョチ・ウルスの第12代当主(ハン、在位1342年〜1357年)である。先々代のウズベク・ハンの息子で、先代のティニベク・ハン(ティーニー・ベク)の同母兄弟にあたる。母は、ウズベクの4人の正妃のうち第一正妃で大ハトゥンだったタイドゥラである。名の「ジャーニー」はペルシア語の「魂」にちなむ語に由来し、兄のティーニー(「肉体の」の意)と対になる。1334年ごろにウズベクの宮廷を訪れたイブン・バットゥータは、この兄弟に旅行記で触れている。ジャーニー・ベクは敬虔なムスリムとして知られ、異教徒の寺院を壊し、モスクやマドラサを建てて、父が進めていた国内のイスラーム化に力を尽くしたという。バットゥータは、ジャーニー・ベクに仕えるムスリムの高官たちから、主人のほうが人柄がよいからと勧められ、その天幕に滞在した。
ウズベクが亡くなると、跡継ぎをめぐって兄弟が争った。亡くなったのは1341年とも、1342年3月から4月にかけてのサライでのこととも伝えられる。兄ティーニー・ベクは東にいて、攻撃の準備をしていたともいわれ、中央の地に入ったところでジャーニー・ベクの配下に殺された。弟のヒドル・ベクも、その命令で殺されたとされる。ジャーニー・ベクは1342年に、母の支持を得て、クリルタイ(諸侯の会議)でハンに選ばれた。後世の伝えには、ティーニー・ベクがいったん即位して殺され、ジャーニー・ベクが跡を継いだというものもある。
1342年、教会の富をねたむロシアの公にそそのかされて、ジャーニー・ベクはロシア教会に一時的に税を課した。治世の初めにはヴェネツィア人への特許状を確認していたが、1343年9月にヴェネツィアの貴族アンドレオロ・チヴランがタナでモンゴルの役人を殺したため、イタリア人の植民地からラテン人を追放した。ジェノヴァとヴェネツィアは一時的に同盟して通商を禁じ、ジャーニー・ベクはジェノヴァ人のクリミアの都市カッファへ兵を増やして応じた。包囲戦は3年に及び、双方に大きな損害が出たとされる。1347年の包囲では軍内にペストが広がって撤退を余儀なくされ、そのときジャーニー・ベクがペストにかかった兵の死体を町に投げ込んだという話が伝わる。ただしこの話は、ピアチェンツァのガブリエーレ・デイ・ムッシの証言に基づくもので、本人は包囲戦に加わっておらず、伝聞による可能性が高いと指摘され、真偽は定かではない。
1347年9月には、ロシア教会の免税の特権を戻し、1351年にも確認した。モスクワのシメオンとイヴァン2世を父と同じく支持し、ロシアの年代記は彼を「よき皇帝」と呼んだ。1353年にシメオンが亡くなると、ウラジーミルの大公位を争うニジニ・ノヴゴロド・スーズダリの公に対して、弟のイヴァン2世の側についた。
1355年とも、1356年から1357年にかけての冬ともされる年に、ジャーニー・ベクはチョバン朝の支配下にあったタブリーズを占領した。息子のベルディ・ベクに駐屯を命じて本国へ帰ったが、ジャーニー・ベクが重病にかかったという知らせを受けて、ベルディ・ベクは宰相アヒジュクにタブリーズの統治を任せて戻った。1357年、ジャーニー・ベクは亡くなった。ジョチ・ウルスのイスラーム化に反対するベルディ・ベクに殺されたともいわれ、諸侯が絞め殺したとも伝えられるが、死因ははっきりしない。
同じ年に亡くなった人物
- Charles I of Monaco (1357年)
- インゲビョルグ・エリクスドッティル (1357年没)
- バルトールス・デ・サクソフェラート (1357年没)
- アフォンソ4世 (ポルトガル王) (1357年没)
- ジャウッディーン・バラーニー (1357年)
同じ地域に関係する人物
- バラク (ジョチ家) (1420年代没)
- トゥラ・ブカ (1291年没)
- ティーニー・ベク (1342年没)
- ウラジーミル・コマロフ (1967年没)
- ヴァハン・テリアン (1920年没)