伝記
アフォンソ4世は、1291年2月8日に生まれ、1357年5月28日に没した第7代ポルトガル王である。在位は1325年から1357年まで。父はディニス1世、母は王妃イザベル・デ・アラゴンで、1340年のサラードの戦いで負傷しながらも自ら剣を振るって戦ったことから、「勇敢王」と呼ばれる。1309年にはカスティーリャ王サンチョ4世の末娘ベアトリスと結婚し、4男3女をもうけた。
若いころは、腹違いの兄アフォンソ・サンシェスとの対立に苦しんだ。父は詩作に優れた庶長子のサンシェスを寵愛し、アフォンソは兄に憎しみを抱いていた。1314年に兄が王国執事長に任命されると対立は激化し、父は兄をカスティーリャ王国内の自領へ移した。しかし、アフォンソの側近の貴族たちは、父が教皇の承諾を得て兄への譲位を図っていると扇動した。こうしてアフォンソは、母イザベルや一部の大貴族らに支えられて父に反乱を起こし、内戦となった。母の仲介で一度は矛を収めたが、再び反乱を起こし、和平は1324年に結ばれた。1325年1月7日に父が没し、アフォンソが王位を継いだ。即位すると、カスティーリャにいた兄の全財産を没収して国外へ永久追放したが、1326年に兄が報復のため帰国して内乱が起きた。この争いも、コインブラの修道院に隠棲していた母の仲介で収まった。
治世前半は、カスティーリャとの関係に振り回された。1328年に娘マリアをカスティーリャ王アルフォンソ11世に嫁がせたが、王が公然と妃を侮辱したため、結婚は順調ではなかった。1335年には王子ペドロと有力貴族の娘コンスタンサとの結婚が妨害されると、アフォンソはカスティーリャを攻撃し、戦争は4年に及んだ。その後、モロッコのマリーン朝がイベリア半島に勢力を拡大すると、両国は和解して同盟を結び、1340年10月13日のサラードの戦いで連合軍がマリーン朝軍に勝利した。戦後は対立が再び深まり、イングランドやアラゴンに同盟を求め、娘レオノールをアラゴン王ペドロ4世に嫁がせた。しかし1348年にレオノールがペストで病没し、同盟は解消された。同年秋のペストの流行で、人口の3分の1が失われたとされる。
内政では、王権の強化を進めた。主要な地方自治体の判事を、住民が選ぶ人物から、国王が外部から派遣する人物へ切り替え、法廷には上訴権を設けて、民事と刑事の裁判を区分した。1352年12月7日の勅書では、婚姻を帳簿に記録させ、教区登録の原型をつくった。リスボンのイタリア商人に説得され、カナリア諸島の探検に資金を出したことでも知られる。
晩年を最も暗くしたのが、息子ペドロの恋である。1340年にペドロがコンスタンサと結婚したとき、その侍女イネス・デ・カストロと恋に落ちた。ペドロがイネスとの結婚の許可を教皇に願い出ると、アフォンソと廷臣たちは強く反対した。イネスの一族の重用を妬んだ廷臣たちが、彼女の子を王位に就けようとしているとアフォンソに讒言したという。イネスの父がポルトガルとカスティーリャに強い影響力を持つことも恐れ、アフォンソは1355年1月にイネスを処刑させた。これを知ったペドロが反乱を起こしてドウロ川とミーニョ川の一帯が荒れたが、母ベアトリスの説得で反乱は収まった。1357年にアフォンソは没し、リスボンの大聖堂に王妃とともに葬られた。
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