HISTORICAL PERSON · 1420年代没

バラク (ジョチ家)

ジョチ・ウルスの君主。ティムール朝のウルグ・ベクの援助を得てハン位を巡る競争者を破り、ヴォルガ川流域で勢力を広げたが最終的に戦闘で落命した。

生涯
1420年代没
死亡地
ジョチ・ウルス(サライ)
出生地
ジョチ・ウルス(オレンブルク州 / ジョチ・ウルス)
出典
世界地図
ジョチ・ウルス(オレンブルク州)

伝記

バラクは、生年は不明で、1428年ごろ(1429年ともいわれる)に没した、ジョチ・ウルスの君主(ハン)である。1370年代のハンであるオロス(ウルス・ハン)の孫にあたり、父はクユルチュクである。在位は1419年ごろから1428年ごろとされるが、1423年から1426年と1427年から1428年とする説もある。

父クユルチュクは、ジョチ・ウルスのハンの地位を狙ったが、権力の奪取に失敗した。1394年にはティムールが彼をハン位に就けたものの、まもなくティムール・クトルクとエディゲに倒されたともいわれる。父の跡を継いだバラクもハン位を求め、1419年の4月か5月に、ティムール朝の統治下にあったサマルカンドを訪れた。サマルカンドの支配者ウルグ・ベクに援助を求め、王と同様の厚遇を受けた。ウルグ・ベクは軍を戦いの備えにつかせたが、援助がなくとも、バラクは成果をあげたという。

キプチャク草原に戻ったバラクは、トカ・テムル家のフダーイダード、ウルグ・ムハンマドら、ハン位を争う競争者との戦いに勝利した。1422年9月にはヴォルガ川流域でフダーイダードに決定的な勝利をおさめ、1423年にヴォルガ川を越えて、モスクワ南方のオドエフに侵入した。ロシア側の年代記では、略奪をしてから追撃され、奪った捕虜を取り返されたとされるが、この侵攻はバラクではなくフダーイダードによるものだとする研究者もいる。1424年にはウルグ・ムハンマドを破り、1424年末から1425年初めにかけて、ウルグ・ベクのもとへ使者を送り、ハン位を宣言した。使者は白い隼と駿馬を携えており、ウルグ・ベクは返礼として、高官、職人、献酌人、楽人をつけて使者を送り返した。

その後、バラクはウルグ・ムハンマドに首都サライを奪われ、1426年ごろにウルグ・ムハンマドはハンへの復位を宣言した。1427年には、バラクが東のキプチャク草原を、トカ・テムル家のデヴレト・ベルディがクリミア半島を、ウルグ・ムハンマドがサライ周辺を支配する構図ができていた。西方での勢力拡大に失敗したバラクは、東方への進出をはかり、同盟者であったマンギト部の指導者マンスールを殺害した。1426年か1427年には、「祖父のオロスがこの地に住み、建物を作り上げた」ことを根拠に、かつてオロスが支配していたスグナクの領有権を主張し、ウルグ・ベクと対立した。満足のいく返答がなかったため、スグナクとその近辺を略奪し、ティムール朝の総督アルスラン・ホージャ・タルハンがウルグ・ベクに援助を求めた。バラクはスグナク近郊の丘陵での戦闘でウルグ・ベクを破り、マー・ワラー・アンナフルの一部とテュルキスタンを略奪して、キプチャク草原へ引き上げた。草原に戻って間もなく、マンギトと結んだクチュク・ムハンマド・ハンとの戦闘で落命したと考えられている。ノガイ・ウルスのガージーとナウルーズとの戦いで1428年に没したとも、暗殺されたともいわれる。バラクの死後、東のキプチャク草原は、シャイバーニー家のアブー・ル=ハイル・ハンの手に渡り、40年にわたって治められた。1460年代には、バラクの子ジャニベクが、アブー・ル=ハイルに背き、ケレイとともにジェティスー(七つの川)の地へ移って、カザフ・ハン国を立てた。

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