伝記
ボンヌ・ド・リュクサンブールは、1315年にプラハで生まれ、のちにフランス王ジャン2世の妃となった女性である。父はルクセンブルク家のボヘミア王ヨハン、母はボヘミアとポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカであった。ドイツ語ではユッタ、またはグタと呼ばれ、神聖ローマ皇帝となるカール4世は同母弟にあたる。フランス王シャルル4世の2番目の王妃マリー・ド・リュクサンブールは叔母であった。15歳ごろの1330年に母を亡くし、父はその後ベアトリス・ド・ブルボンと再婚した。
父は娘の縁組によって家の力を強めようとし、ボンヌは何度も縁談の対象になった。6歳のときにはマイセン辺境伯家のフリードリヒと婚約したが、ヴェッティン家がバイエルン公ルートヴィヒの側についたため、父がこれを破棄したという。ポーランドのカジミェシュ3世との婚約もあったが、これも解消された。やがて父はフランスのヴァロワ家の王座に目を向け、息子カールとブランシュ・ド・ヴァロワ、娘ボンヌとジャン・ド・ヴァロワの二重の婚約を結んだ。
1332年7月28日、ムランのノートルダム教会で、17歳のボンヌは13歳の王太子ジャン、のちのジャン2世と結婚した。ジャンはフィリップ6世の長男である。式には6千人が集まり、祝宴は2か月にわたり、新郎がパリのノートルダム大聖堂で騎士に叙せられるまで続いたという。グタという名はこのとき、フランス語でボンヌに改められた。ボンヌは夫とともにノルマンディー公妃、アンジュー女伯、メーヌ女伯となった。美しい人で、受けた教育と教養によっても周囲を魅了したといわれる。ジャン・ル・ノワールが制作した彼女の名を冠する詩篇集は宮廷の洗練をうかがわせ、作曲家で詩人のギヨーム・ド・マショーを気に入って身近に置くなど、芸術家の庇護者でもあった。
夫婦には4男7女が生まれた。1336年にブランシュが、1338年にシャルルとカトリーヌが、1339年にルイが、1340年にジャンが、1342年にフィリップが生まれ、さらに1343年にジャンヌ、1344年にマリー、1345年にアニェス、1347年にマルグリット、1348年にイザベルが生まれた。ブランシュとカトリーヌは生まれた年に没し、アニェスは1349年に、マルグリットは1352年に世を去った。
1349年9月11日、ボンヌはペスト(黒死病)の再流行により、34歳でモーブッソン修道院で亡くなり、同修道院に葬られた。夫がフランス王に即位する前年のことで、王妃にはならなかった。ジャンは半年足らずのうちにジャンヌ・ドーヴェルニュと再婚した。ボンヌの子のうち、シャルルは1364年から1380年までフランス王シャルル5世として在位し、ルイはヴァロワ=アンジュー家の祖としてアンジュー公、プロヴァンス伯、ナポリ王となった。ジャンはベリー公に、フィリップはヴァロワ=ブルゴーニュ家の祖となって豪胆公と呼ばれるブルゴーニュ公になった。娘のジャンヌは1352年にナバラ王カルロス2世(悪人王)と、マリーは1364年にバル公ロベール1世と、イザベルは1360年にミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1349年没)
- フアン・マヌエル (1349年没)
- マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク (ハンガリー王妃) (1349年没)
- トーマス・ブラドワーディン (1349年)
- ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ (フィリップ6世王妃) (1349年没)
同じ地域に関係する人物
- フレデリック・モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (ブイヨン公) (1652年没)
- ポール・トルトゥリエ (1990年没)
- フィンセント・ファン・ゴッホ (1890年没)
- ルイーゼ・ホランディーネ・フォン・デア・プファルツ (1709年没)
- ヴィクトル・シュルシェール (1893年没)