伝記
ジャンヌ・ド・ブルゴーニュは、フランス王フィリップ6世の最初の王妃である。1293年6月24日に生まれ、ジャンヌ・ラ・ボワトゥーズとも呼ばれた。ボワトゥーズは「足の不自由な女」の意である。父はブルゴーニュ公ロベール2世、母はフランス王ルイ9世の王女アニェスで、二人の次女にあたる。姉のマルグリットはルイ10世の妃となった。
1313年、ジャンヌはルイ10世の従弟フィリップ・ド・ヴァロワと結婚した。夫妻はメーヌ伯・伯爵夫人となり、1325年からはヴァロワ伯、アンジュー伯の夫妻でもあった。フィリップ4世の息子であるルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世と歴代の王に男子がなかったため、1328年にフィリップ・ド・ヴァロワが王位に就いた。ジャンヌの夫が始めたこのヴァロワ家の王統は、1589年までフランスを治めることになる。二人の間には、のちのジャン2世(1319年生まれ)や、1326年生まれのマリー、1329年と1330年に生まれた二人のルイ、1336年生まれでのちのオルレアン公となるフィリップ、1337年生まれのジャンヌらが生まれた。マリーはブラバン公ジャン3世の子ジャンと結婚した。ジャンヌは学者肌の女性で、愛書家でもあったとされる。息子のジャンには写本を送って読ませ、ヴァンサン・ド・ボーヴェの『史鑑』やジャック・ド・セッソルの『チェスの道徳論』といった当時の重要な書物を、ジャン・ド・ヴィニェにフランス語へ訳させた。その働きは、フィリップ4世の代に始まった、上流の人々にとどまらない学問の広がりを支えたものとして知られる。
1337年に百年戦争が始まり、イングランド王エドワード3世は、ルイ10世の甥であることを理由にフランス王位の継承権を主張した。1338年8月、フィリップ6世はクレルモン=アン=ボーヴェジで出した文書により、ジャンヌに必要なときに国政を任せる権限を与えた。財政の管理、判決や恩赦をはじめ、戦争の指揮を除く王の職務が含まれていた。王は宮廷人を深く疑っており、それがジャンヌへの信頼の厚さの一因だったともいわれる。夫が戦地へ出ているあいだ、ジャンヌは摂政を務め、それは1340年、1345年から1346年、1347年に及んだ。
知的で意志の強いジャンヌは、夫が戦場にいるあいだ采配を振るったが、その性格と権力の強さが夫婦の悪評を招いた。うわさは足の奇形によって強められ、これは邪悪の印だと考える人も一部にいた。やがて彼女は「足の不自由な王妃」と呼ばれるようになった。出身地のブルゴーニュの人々を重んじたともいわれ、その方針は夫と息子にも引き継がれて、宮廷の貴族の反感を買った。
1349年12月12日、ジャンヌは黒死病で世を去り、サン=ドニ大聖堂に葬られた。孫のシャルル5世が建てた墓は、フランス革命のときに壊された。翌1350年に息子のジャンが王位を継いだ。1361年には、ジャンヌの大甥にあたるブルゴーニュ公フィリップ1世が嫡出の子なく亡くなり、ブルゴーニュ家の男系が絶えた。姉マルグリットの孫シャルル・デヴルーが相続の権利を主張したが、ジャンヌの長男ジャンがいったん王領とした後、四男のフィリップ豪胆公に公位を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1349年没)
- フアン・マヌエル (1349年没)
- トーマス・ブラドワーディン (1349年)
- イザベッラ・ディ・シチリア (バイエルン公妃) (1349年没)
- リュラのニコラス (1349年)
同じ地域に関係する人物
- ジョフロワ2世 (ブルターニュ公) (1186年没)
- ガブリエル・オーギュスト・ドブレ (1896年没)
- イサベル2世 (スペイン女王) (1904年没)
- アントワーヌ・セザール・ベクレル (1878年没)
- フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン (1835年没)