HISTORICAL PERSON · 1349年没

ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー

イルハン朝のペルシア人歴史家・地理学者。世界史『選史』や韻文による大部の『勝利の書』を著した。

生涯
1349年没
死亡地
イラン共和国(ガズヴィーン州 / ガズヴィーン)
出生地
イラン共和国(ガズヴィーン)
出典
世界地図
イラン共和国(ガズヴィーン州)

伝記

ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニーは、イルハン朝の時代に生きたペルシア人の官僚、歴史家、地理学者、叙事詩人である。1281年にイラン西部のカズヴィーンで生まれた。家はもとアラブ系で、9世紀から10世紀にはカズヴィーンの代官を務め、ガズナ朝の時代には財務大臣にあたるムスタウフィーを出した。曾祖父のアミーヌッディーン・ナスルはイラクのムスタウフィーを務め、これが一族の通称になった。この曾祖父は、1220年にモンゴル軍がカズヴィーンを攻めたとき、引退していたところを殺された。

それでも一族はモンゴルに仕えつづけ、むしろこの時代に名を高めた。年上のいとこのファフルッディーンは短期間イルハン朝のワズィールを務め、兄のザイヌッディーンは宰相で歴史家のラシードゥッディーンの補佐をした。ムスタウフィー自身も1311年にカズヴィーンの会計役となり、アブハル、ザンジャーン、ターロマインといった近隣の地区も任された。この任にはラシードゥッディーンが就けたとされる。ムスタウフィーは、ラシードゥッディーンが催した勉強会に加わったことをきっかけに歴史に関心を抱いた。『勝利の書』には、自分が考案したカズヴィーンの会計の手続きがラシードゥッディーンに認められたことを誇りにしていたという記述がある。

1320年、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の続きとして、預言者の時代から当時までの年代記を韻文で書く『勝利の書』に着手した。1334年に完成したこの書は7万5千句からなり、イスラーム時代の歴史をイルハン朝の時代まで語る。1330年には、ラシードゥッディーンの子ギヤースッディーン・ムハンマドのために散文の世界史『選史』を書いた。預言者たち、イスラーム以前のイランの王たち、イスラーム世界を扱い、全6部で天地創造からイルハン朝のアブー・サイードまでを述べる。1304年のガザン没後の記述は重要な情報を含み、政治の叙述はギヤースッディーン・ムハンマドが宰相に任じられる明るい調子で終わる。最後の部はまるごとカズヴィーンの地誌と名士録で、モンゴル宮廷に仕えたイラン系ムスリム官僚の一族の記録としても貴重である。ジュヴァイニー家との対抗意識から、この書では同家への言及が省かれた箇所があるとされる。

イルハン朝の末期の暮らしはほとんど分かっていないが、タブリーズとバグダードの間を行き来していたという。1339年の夏にはサーヴェにいて、ギヤースッディーン・ムハンマドの娘婿で、ジャライル朝の支配者の宰相であったハッジ・シャムスッディーン・ザカリヤーのもとで、役所の運営を手伝おうとした。しかしハサン・ブズルグがチョパン家の王子ハサン・クチャクに敗れてバグダードへ退いたため、すぐに職を失った。カズヴィーンへ戻るか南へ逃れるかで迷い、シーラーズへ向かったものの、インジュー朝のアミール・マスウード・シャーの宮廷での扱いに失望した。それでもさらに十か月ほど留まったが、王位をめぐる争いの混乱のため北へ戻り、アーワ、サーヴェ、カーシャーン、イスファハーンで歓迎され、1340年の終わりにカズヴィーンへ帰った。世界誌『心魂の歓喜』を完成させたのはこの時期である。

没年は1349年とされるが、1339年か1340年の少しあと、カズヴィーンで亡くなったともいわれる。カズヴィーンには霊廟が残り、青いトルコ石に似た淡い青色の釉薬タイルで飾られた円錐形のドーム屋根が特徴である。ムスタウフィーがイランの歴史と地理をとらえた方法は、のちの歴史家たちにならわれた。

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