伝記
フアナ2世は、ナバラ王国の女王である。フランス語ではジャンヌと呼ばれる。1311年とも1312年ともいわれる1月28日にコンフランで生まれた。父はフランス王ルイ10世で、ナバラ王としてはルイス1世と名乗った。母はその最初の王妃マルグリット・ド・ブルゴーニュである。祖母のフアナ1世の死後、父はナバラ王位とシャンパーニュ、ブリーの伯領を受け継いでおり、1307年に一度だけナバラを訪れて、パンプローナの大聖堂で戴冠していた。
1314年の初め、祖父のフランス王フィリップ4世は、三人の嫁のうちマルグリットとブランシュを不貞のかどで、ジャンヌを不貞をかばった者として投獄させた。いわゆるネールの塔の事件である。ジャンヌは最終的に赦された。この年の11月に祖父は没した。母はそのまま獄中にあり、1315年4月に世を去った。父はハンガリーのクレマンスと再婚し、1316年6月5日に没した。11月に生まれた異母弟のジャン1世は数日で亡くなった。フアナは五歳で両親を失い、叔父のブルゴーニュ公ウードに後見された。母の不貞による出生への疑いと、サリカ法が根拠とされたことから、王位からは退けられた。叔父のフィリップ5世が二つの王冠を継ぎ、その即位は1317年2月のパリの全国三部会で認められた。
フアナには、有力者との縁組が急がれた。相手は、父のいとこにあたるエヴルー伯ルイの子フィリップ・デヴルーで、二人はそれぞれ7歳と17歳であった。1318年6月18日に婚約が正式に結ばれ、教皇の特免を得て、成人の年齢に達する1324年まで結婚の成立を待ったという。フィリップは1319年にエヴルー伯領を継いだ。ブルゴーニュ公がフアナに代わってシャンパーニュとブリーの権利を放棄していたため、この権利はのちにフアナと、のちの息子シャルルが長く争うことになる。1322年にフィリップ5世が没し、同じ叔父のシャルル4世が即位した。シャルル4世が1328年2月1日に亡くなると、継承が再び問題になったが、ヴァロワ家のフィリップ6世はナバラ王家の血を引いておらず、フランスとナバラの同君連合は解消された。フアナは、フランス王位継承権の放棄とシャンパーニュ伯領の譲渡と引き換えに、ナバラ王位とアングレーム伯位、モルタン伯位、ロングヴィル伯位を受け取った。
1329年3月5日、フアナは夫とともにナバラ王として戴冠した。夫フェリペ3世との共同統治が行われ、夫妻はノルマンディーやシャンパーニュなどフランス北部に広い領地を持った。夫婦の間には九人の子が生まれた。長女ジャンヌは修道女となり、マリーはアラゴン王ペドロ4世の最初の王妃、ブランシュはフランス王フィリップ6世の二番目の王妃となった。1332年生まれのシャルルはのちにナバラ王となり、アニェスはフォワ伯ガストン3世と結婚した。フェリペ3世は1343年に没した。フアナは1349年10月6日に黒死病で亡くなり、ナバラ王位とエヴルー伯位は息子のカルロス2世が継いだ。
フアナ自身はフランス王位に就かなかったが、子孫のナバラ王エンリケ3世は1589年にフランス王アンリ4世として即位し、フランスとナバラは再び同君連合となった。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯) (1349年没)
- リュラのニコラス (1349年)
- トーマス・ブラドワーディン (1349年)
- イザベッラ・ディ・シチリア (バイエルン公妃) (1349年没)
- マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク (ハンガリー王妃) (1349年没)
同じ地域に関係する人物
- ジルベール・デセリー (1183年没)
- アルフォンス・ボレリー (1926年没)
- ジャック・ペルチエ・デュ・マン (1582年没)
- エリー1世 (メーヌ伯) (1110年没)
- フェルディナン・ド・レセップス (1894年没)