HISTORICAL PERSON · 1894年没

フェルディナン・ド・レセップス

フランスの外交官・実業家。エジプト総督の同意を得て国際スエズ運河株式会社を設立し、スエズ運河を建設したことで知られる。

生涯
1894年没
死亡地
フランス共和国(アンドル県 / Guilly)
出生地
フランス共和国(ヴェルサイユ)
出典
世界地図
フランス共和国(アンドル県)

伝記

フェルディナン・マリ・ド・レセップスは、1805年11月19日、ヴェルサイユに生まれたフランスの外交官、実業家で、スエズ運河を建設したことで知られる。父マチューは外交官で、母カトリーヌ・ド・グレヴィニェはスペイン人である。叔父バルテルミーは、ラ・ペルーズ伯の探検航海に参加し、その旅行記を著した人物だった。母方のいとこには、のちにナポレオン3世の皇后となるウジェニー・ド・モンティジョがいる。父がエジプトのムハンマド・アリーを早くから支援していたことが、半世紀後の彼とエジプトの縁をつくった。少年期の様子はほとんど知られていないが、パリのアンリ4世校で学び、一時はフランス軍に入隊した。

1825年、20歳のときに叔父の求めで外交官の道に入り、リスボンの副領事を務めた。その後、チュニスでも領事を務めた。1832年から33年にかけて、副領事としてアレクサンドリアに赴任する途上、船内でコレラが発生し、上陸が一時停止されて海上で隔離された。このとき暇つぶしに読んだ、フランス人技師がナポレオンに宛てたエジプトに関する報告書から、スエズ運河構築の夢を抱いたと伝えられる。1834年から1837年までカイロ領事を務め、エジプト総督家に厚遇されて、少年だったサイード・パシャの家庭教師となり、深く慕われた。1848年から翌年にはマドリードで大使を務め、1849年に外交官を辞したが、隠居中の1854年に、妻と息子に相次いで先立たれた。

失意の折に、エジプト総督アッバース・パシャが暗殺され、教え子のサイードが1854年に即位した。レセップスはこれを訪ねて歓迎され、スエズ運河の開発を提案して同意を取り付けた。ただし、エジプトの宗主国オスマン帝国のスルタンの承認がなければ無効という条件付きだった。オスマン帝国は運河が両国の国境になることを恐れて反対し、元来、運河に反対で自国の通商への脅威とみなしていたイギリスも圧力をかけ、たびたび妨害した。同年11月30日に開削権を得たレセップスは、親族のナポレオン3世やイギリスのパーマストン首相の説得を試み、イギリスで何度も講演したが、着工は遅れた。彼はあきらめず、国際スエズ運河株式会社を設立して株式を売り出し、国際世論に訴えた。1855年、スルタンの承認を得ないまま、試験掘削という名目で着工した。1863年1月にサイードが急死し、イスマーイール・パシャが後を継いだ。イギリスの圧力は強まったが、ナポレオン3世が仲裁に入り、難工事と疫病の蔓延を克服して、運河は1869年に完成した。開通式には各国の王族や名士7000人が参列した。スエズ運河会社は莫大な利益をあげ、1870年にはアルバート・メダルを受けた。

晩年はパナマ運河の開発に取り組み、1881年にパナマ運河会社の社長に就任したが、黄熱病が猛威を振るう現地での工事は困難を極めた。経営の乱脈で世評が悪化して資金募集に行き詰まり、富くじ付き債券で募ったものの、会社は1889年に破産した。パナマ疑獄事件が起き、背任と詐欺のかどで禁固5年を宣告されたが、上告して1893年に最高法廷で無罪判決を得た。しかし名声を失い、1894年12月7日に失意のうちに亡くなった。

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