伝記
タフマースブ1世は、1514年に生まれたサファヴィー朝の第2代シャーである。初代シャーのイスマーイール1世の息子で、生後まもない同年、父はチャルディラーンの戦いでオスマン帝国のスルタン・セリム1世に大敗し、それまでの勢いを失って、配下のクズルバシュへの統制力も弱まった。1524年に父が没すると、10歳でシャーの座に就いた。幼少のため支配が行き渡らず、クズルバシュの暴動が起こり、東からはウズベク人のシャイバーニー朝がホラーサーンへ侵攻してきたため、内紛を後回しにしてホラーサーンの防衛に集中した。成人すると、1533年にクズルバシュ筆頭格のフサイン・ハーン・シャムールーを処刑し、クズルバシュの統率に成功した。
クズルバシュを抑えるため、軍事と行政の整備に取り組んだ。宰相を任命して地方総督の監視役に置き、クズルバシュ同士を牽制させて突出した勢力の台頭を防いだ。弟のバフラム・ミールザーを軍司令官に任じ、クズルバシュから人材を登用して親衛隊(コルチ)に任命し、奴隷も軍人に引き立てて(グラーム)、二つの経路から直轄軍を作り上げた。ただし、クズルバシュの軍事力はなお必要で、完全な排除には至らなかった。
治世はオスマン帝国とシャイバーニー朝との抗争に明け暮れた。1533年からセリム1世の息子スレイマン1世が遠征を開始し、首都タブリーズを落とされ、翌1534年にはバグダードを奪われて、現在のアゼルバイジャンとイラクに当たる地方がオスマン帝国の領土となった。だが、ゲリラと焦土戦術でそれ以上の接近を許さず、1548年と1553年から1554年の遠征でも同様に敵を苦しめた。1555年にアマスィヤ条約が結ばれ、オスマン帝国はイラクの領有を確定させ、サファヴィー朝はタブリーズを保持した。以後20年以上、平和が続いた。1560年にスレイマン1世の息子バヤズィトが亡命した際は、スレイマン1世へ引き渡し、ヨーロッパからの同盟の申し出も拒んでいる。1540年から1554年にかけては北西のグルジアへ4度遠征し、金銀と多数の捕虜を得た。グルジア人、アルメニア人、チュルケス人の捕虜は、グラームに回されたほか、官僚として登用される者も出て、中央集権に役立つ人材として台頭していった。都はタブリーズから南東のガズヴィーンへ移された(時期は諸説あり定かでない)。1543年には内紛で亡命したムガル帝国のフマーユーンを保護し、改宗と引き換えに軍事援助を与えたが、フマーユーンは改宗しなかった。
芸術の保護にも熱心で、ティムール朝のフサイン・バイカラに庇護されていたビフザードを召し抱え、258点の挿絵を収めた『シャー・ナーメ』と、14点の挿絵を収めた『ハムサ』を製作させた。しかし治世後半には、ガズヴィーンの王宮に閉じ籠って蓄財と宗教政策に熱中し、芸術や世事から目を背けた。十二イマーム派に傾倒して異端弾圧を繰り返し、1568年から1570年、1571年から1573年の暴動の鎮圧も遅れたという。後継者を指名しなかったことも混乱に拍車をかけた。
1576年5月14日、62歳で没し、ホラーサーンのマシュハドへ埋葬された(後にエスファハーンへ改葬)。妻に毒殺されたともいうが、浴場で両脚に塗った脱毛剤による重い火傷が死因ともされる。死後、3男ハイダルの政権奪取は失敗して処刑され、次男のイスマーイール2世が擁立されたが、翌1577年に急死した。長男のムハンマド・ホダーバンデが即位したものの傀儡にとどまり、内乱が本格化した。孫のアッバース1世が鎮めるまで内乱は続き、のちに同王はサファヴィー朝の最盛期を築いた。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ3世 (プファルツ選帝侯) (1576年没)
- Aqa Mirak (1576年没)
- ハンス・イワース (1576年(推定))
- ヨハン・アルブレヒト1世 (メクレンブルク公) (1576年没)
- マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝) (1576年没)
同じ地域に関係する人物
- ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1349年没)
- イスマーイール2世 (1577年没)
- ハサン・サッバーフ (1124年没)
- アフマド・ガザーリー (1126年没)
- ロバート・シャーリー (1628年没)