伝記
コスタンディン2世(コンスタンティノス4世とも数えられる)は、キリキア・アルメニア王国のラテン人として初めての王である。生まれたときの名はギー・ド・リュジニャンといい、リュジニャン家の出身である。母イザベルはアルメニア王レヴォンの娘で、父アマルリックはキプロス王ユーグ3世の子とされ、ティルスの公やキプロスの執事長を務めた人物と伝えられる。
ギーは1317年からコンスタンティノープルで暮らした。1318年ごろにカンタクゼノス家の女性と結婚したが、子はなく、この妻は1330年ごろに亡くなったとされる。1328年にはマケドニアの都市セレスの総督(ストラテゴス)に任じられ、1341年までその地位にあった。1330年から1332年のあいだには、テオドラ・シルギアンナイナと再婚している。彼女はシルギアンネス・パレオロゴス・フィラントロペノスの娘とされる。1336年にはキプロス王からティルスの領主とされたが、この町はそれより45年前にマムルーク朝に征服されており、領主の称号は中身のないものだった。
その後、いとこのレヴォン4世がアルメニアの貴族たちに殺された。ギーは最も近い親族であり、レヴォンの遺言でも後継者に指名されていた。王冠はまず、キリキアの近くにいた弟ジャンが預かって摂政を務め、ギーに即位を勧めた。ギーは当初ためらった。母と2人の兄弟が、アルメニアの摂政コリコスのオシンに殺されていたからである。それでも最後には受け入れ、コスタンディンを名乗った。ラテン人の王家であるリュジニャン家は、マムルーク朝に追い詰められたアルメニアにとって、王家の正統性と防衛の最後のよりどころでもあった。治世は1341年からとも1342年からともいわれる。
ギーは騎士の一団を率いてアルメニアに入ったが、国の防衛に力を注ぐよりも宗教上の論争に心を向けたとされる。アルメニア教会にローマ教会への服従を求め、キリスト単性説を捨てさせようとした。まもなく各地で反乱が起こり、取り巻きのラテン人は次々に倒され、弟ジャンも暗殺された。ギー自身も1344年4月17日に反乱のなかで殺された。アルメニアの貴族たちは、ヘトゥム家の遠縁にあたるコスタンディン(3世とも5世とも数えられる)を王に立てた。
娘イザベルは1333年ごろ以降に生まれ、1349年2月26日より後に、皇帝の子でモレアの専制公となるマヌイル・カンタクゼノスと結婚した。このほかに、1347年より前に幼くして亡くなった子がいたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ゲルソニデス (1344年没)
- Shihab ad-Din Ahmad (1344年没)
- オットー (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1344年没)
- Abu Hayyan al-Gharnati (1344年)
- シモーネ・マルティーニ (1344年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティウス2世 (361年没)
- クィントゥス・ラビエヌス (紀元前39年没)
- レヴォン3世 (1289年没)
- Mleh (1175年没)
- レヴォン4世 (1307年没)