HISTORICAL PERSON · 1307年没

レヴォン4世

アルメニア王国キリキアの若き王。1303年、未成年のまま叔父ヘトゥム2世の引退を受けて戴冠し、叔父が摂政となった。

生涯
1307年没
死亡地
トルコ共和国(アダナ県 / アナザルブス)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(アダナ県)

伝記

レオン3世は、レヴォン4世とも数えられる、キリキア・アルメニア王国の若い王である。1289年に生まれ、父はアルメニア王トロス3世、母はキプロス王ユーグ3世の娘マルグリット・ド・リュジニャンである。ランプロン家の一員でもある。

生まれたころのキリキア・アルメニアは不安定な情勢にあった。モンゴルの帝国の属国として危うい関係を保ちながら、南のイスラム教徒のマムルーク朝の攻撃を防がねばならなかった。レオンが幼いあいだに、王位は何度も入れ替わった。1295年には叔父のヘトゥム2世が王位にあり、1296年には父トロス3世に穏やかに渡された。その後、別の叔父のセンパドに奪われ、センパドを倒した弟のコンスタンティノス3世も、1299年に弟のヘトゥム2世に退けられた。父トロス3世は1298年に殺されていた。1303年、まだ未成年だったレオンは、叔父ヘトゥム2世の引退を受けて王位につき、ヘトゥム2世は摂政となった。ヘトゥム2世は、マルジュ・アッ=スッファルでのモンゴル軍の新たな敗北に気落ちして、フランシスコ会の修道院に退き、甥に助言を続けたとも伝えられる。即位は1305年とする説もある。レオンの治世のあいだに、ペルシアのモンゴル人のハンたちはイスラム教に改宗し、アルメニアの保護者としては頼りにならなくなっていった。1305年には、叔父ヘトゥムとともにアルメニア軍を率い、バグラスでマムルークの襲撃隊を破った。同じ年、テュールの領主アマルリックとアルメニアのイザベルの娘マリー(アニェスとも)と結婚したとされるが、子はなかった。

1306年にモンゴルの将軍イリンジンがキリキア・アルメニア王国の軍事長官に任じられると、ノヤン・タガチャルの親族ビラルグは小部隊を率いてルームへ移り、キリキアに駐屯地を置いた。熱狂的なイスラム教徒だったビラルグは、アルメニアの人々を苦しめ、部下の兵士もこれにならった。のちにビラルグはイリンジンに随行してオルド(宮廷)へ赴き、その働きぶりを称賛され、確かな権限を与えられてルームへ戻った。そこでビラルグは、レオンがかつて宮廷へ来て自分のことを訴えたこと、さらにレオンが自分を陥れようと将校たちを味方につけようとして、失敗したことを聞いた。ビラルグは報復を決め、500人の兵を率いてスィスの地に入り、イスラム教徒の兵20人を率いて要害のアナザルバに駐屯したいとレオンに求めた。レオンはこれに同意せざるをえなかった。

レオンは、イルハン朝とマムルーク朝の両方に年貢を納めていた。そのレオンが、マムルーク朝のスルターンに、ビラルグが勝手に王国の収入を使い、年貢が払えなくなっていると報告した。スルターンから問いただされたビラルグは、使者の口から、情報源がレオンの密告であると知らされた。怒ったビラルグはレオンを呼びつけ、レオンは叔父ヘトゥム2世、大元帥オシン、40人の諸侯を連れて会いに行った。レオンは叔父ヘトゥムとともに、アナザルバでビラルグの手の者に殺された。時期は1307年11月17日とも、1308年ともいわれる。宴の席で襲われたとも、ビラルグが礼拝を口実に立ち上がって、レオンの首を斬ったとも伝えられる。この報せを聞いたアナザルバの守将は、ビラルグの兵を殺し、烽火を上げた。ビラルグは城下へ進んだが、石と矢を浴びせられ、駆けつけたアルメニア軍の前に退却した。ビラルグはのちにイルハンのオルジェイトゥに処刑されたという。レオンの跡は、叔父のオシンが継いだ。

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